妬(やき)もちやきの女房も、極道者の亭主も、彼には服した。
飢餓や病魔のお化けにとッつかれて多年不幸の底にあった因果な家庭も、そこへ、親鸞の明るい顔が訪ねてゆくと、
(このごろ、おめえちの家は、どうしてそんなに皆が機嫌がよく働くようになったのけ?)
と、隣近所がいぶかるほど、打って変って、健康で明るい家族たちの住む家となってしまうのだった。
ある部落では、親鸞のすがたが三日も見えないと、
(ご病気ではないのか)
(なんぞ、お慰め申さでは)
と、竹内の庵室へ、草餅を持って来たり、そっと野菜を置いて行ったり、親鸞も弟子たちもみな留守だと、
「ここが壊れている」
「垣も荒れている」
と、屋根の繕いもしたり、雑草をむしったり、掃除までして、奉仕することをよろこぶのだった。
代官の萩原年景の部下が、配所の見廻りに来て、
「こらっ、下民ども、都から流されてきた流人の小屋を、さように、手入れいたしたり、立ち寄ってはならん」
と叱って追い払うと、
「それ、鬼の子が来た」
と、彼らは争って逃げるが、もう翌朝にはまた来て、
「これを、お上人様へ上げてください」
と、温かい食物など置いて行く。
親鸞は、いつも、
「ここはありがたい仏国である。都のうちでは、こういう仏果にめぐりあうことはすくない」
といって、彼らの喜捨に手をあわせたが、極く質素な朝夕の衣食に足るものだけを受けて、後は貧しい家の病人のいる家へ、弟子たちの手でわけてとらせた。
代官の萩原年景は、
「売僧(まいす)めが、愚民をたぶらかしおる」
と、意識的に、いよいよ配所の人々を苛酷に取り扱ったが、親鸞も弟子たちも、少しも意にかける様子はなくて、国司の法には何事もよく従ったので、憎んではいるものの、危害を加えることはできなかった。
――親鸞は、今日も、国府から四里ほどある漁村をすぎて、裏日本の青い海(うな)ばたを歩いていた。
すると、この辺には見馴れない眉目(みめ)のよい女房が、磯べを悄(しょ)んぼり彼方から辿(たど)ってくる――摺(す)れちがって、ふと、
「はて、どこかで――」
と、親鸞は、小首をかしげながら振り向いた。
女は、摺れちがった人も気づかずに、波打ち際を、俯(う)つ向いて行きすぎた。
「もし……」
こう声をかけると、女は初めて驚いたようにこっちを見て、
「あ……」
眼をみはった。
親鸞が歩み寄って行くと、どう考えたものか、女は突然、まっしぐらに反対の方へ走り出した。
親鸞は手を振りあげた。
折よく、彼方から二、三名の漁師の姿が見えたので、親鸞はそれへ声をかけたのである。
漁師たちは、逃げてくる女をつかまえた。
人々にかこまれると、女は砂の上へ打ち伏して、泣きくずれた。