こうして島津家においては「一向一揆」を懸念して真宗を嫌悪しました。
すなわち、本願寺八代蓮如以来、本願寺門徒を中心として起こった一向一揆や本願寺と信長と争った石山戦争のような、中央の過去の本願寺門徒の動向を見た時、真宗は嫌だなといった雰囲気が醸成されていったのです。
事実、隣の熊本県の人吉藩においても、相良家十七代晴広が天文二十四(1555)年に
一向宗の事、いよいよ法度たるべく候、すてに加賀の白山もえ候事
といった文言をもって真宗を禁止しました。
ここに「加賀の白山もえ候事」とあり、加賀の一向一揆といったことを想定して禁止したと考えられます。
鹿児島においても同様に一向一揆を恐れて真宗を嫌悪する雰囲気が生まれてきたと考えてもいいでしょう。
事実、門徒たちが徒党を結ぶ動きがみられました。
永録九年(1566)庄内、(宮崎県都城市・旧島津領)で一向宗徒が霧島に集団登山して、三百人が焼死したとう記録があります。
この時代には多くの念仏者が存在していました。
そして集団で一致団結した行動をとっていたのでした。