真宗の先祖供養

しばしば仏教あるいは寺院に対する批判として「葬儀や法事(先祖供養)しかしない」といったことが言われます。けれども、「葬儀をしない」といえば批判よりも非難をされるのではなかろうかと思われますし、また法事にしても先祖供養はとても大切なことだと思います。ただし、それが「本当の」先祖供養であればという条件付きですが…。

そこで、以下どうすることが本当の先祖供養なのかを考えてみたいと思います。

先ず供養というのは、仏教においては基本的には讃嘆供養です。「讃嘆」を抜きにした供養ということは決してあり得ないのです。繰り返しますと、仏教で供養というときは、常に讃嘆供養なのです。では、その讃嘆とは何かといいますと、それこそ宇宙共同体というような言葉もありますが、祖先ということに限っていいましても『歎異抄』の第五条の「一切の有情は、世々生々の父母兄弟なり」という、そういう感覚において自分のいのちが受け止められるとき、その自分のいのちというものに限りない歴史を、あるいはそういういのちの歴史をこの身に賜っているということを本当に知るということだといえます。

そのことを抜きにしてしまいますと、供養ということはただの相互間の供与ということにしかすぎなくなります。つまり、これだけ供養したから、これだけ御利益を下さいということでしかなくなってしまうのです。ところが、今日の先祖供養という場合、つねに私たちの目は一方的に先祖の方しか見ていないようです。けれども、大事なことは、先祖の目を通して自分を、いわゆる自分の人生を受け止め直させられるということです。そこに互換性が確保されるのです。

いまは、先祖に向かって「これだけ差し上げますから、これだけ御利益を下さい」という形でしか先祖供養がなされていない場合がほとんどのようです。そうではなくて、先祖供養の場というのは、そういう先祖、あるいはいのちの歴史の前に身を据えるということであり、そのようないのちの歴史を賜ったものとして、いまの自分の人生を喜び、いまの自分の人生をほんとうに大事に受け止めていける、そのことを抜きにして供養ということはないのです。

このような意味で、本当の供養ということは、私の人生をいただき直すということであるべきなのです。報徳の前には必ず知恩があります。ところが、今日の供養の在り方には、知恩という営みが全く欠落してしまっているかの感を否めません。そしてそのときには、供養というものも、ただこれで気持ちが安らぎましたというようなことで終わってしまうのです。したがって、先祖供養ということでいえば、どこまで私たち一人一人が自分の存在に知恩ということを自覚していけるかということが課題になると思われます。

ただし、ここで確認しておきたいのは、親鸞聖人の書かれたものの中には先祖という言葉はないということです。もちろん、先祖という言葉がありませんので、ましてや先祖供養という言葉もありません。では、親鸞聖人においては、先祖ということはまったく問題にならなかったのかというと、どうもそうでもないようです。決して亡くなったものは関係ないということではないようです。

実は、親鸞聖人においては諸仏という言葉が先祖を語っておられる言葉のように思われます。先祖のことを諸仏という言葉で語っておられるのはどのようような意味においてなのでしょうか。言い換えると、亡き人が諸仏となる、私に先立った人が諸仏となるということはいったいどういうことなのでしょうか。

浄土真宗におきましては、亡くなった人の魂がうろうろとどこか次の世に生まれるまでさ迷っていて、そういう魂がどこか良いところへ生まれることが出来るようにと願って供養することは一切ありません。浄土真宗においては、亡くなられた人は仏であると教えています。では、その仏になっているということはどういうことなのでしょうか。

今日、一般に行われます仏事というものをみますと、仏事が受け入れられている感情として、一つには気晴らしということがあるのではないでしょうか。よくご法事を勤め終わったあとに「これで気持ちが晴れました」と言われる方があります。「今回のご法事はカラオケなどと同様に、気晴らしの一つとして営まれたのですか?」と茶化してみたい気持ちが起きないでもありませんが、その根底にあるのは「安らかに眠って下さい」という言葉と重なる感情のようです。つまり、亡くなった人が迷うことなく安らかに眠って下さることで、自分の気持ちも晴れるということなのです。

しかも、その上に私たちの生活をどうか守って下さいということが付いてくるのです。その意味では、気晴らしの宗教、安眠の宗教の上に、おねだり宗教というものが乗っかる形でいまの先祖供養は成り立っているようなのです。

けれども、親鸞聖人における諸仏とは、私をして本願に出会わしめた人々のことです。私をして、真実の教えに出会わせてくださった縁ある人々が諸仏なのです。それ故に、亡くなった人が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるということではないのです。単に浄土真宗では、亡くなったらその人は仏になることになっているということではありません。ましてや、他宗で亡くなったら亡者であって、浄土真宗で亡くなったら仏であるというようなことでもありません。

そうではなくて、亡くなった人が私にとって諸仏だということは、亡くなった人から私の生の全体が問い詰められて、そのことが私をして本願に出会わしめる縁となる、そういう縁となったときに亡くなった人が諸仏となるのです。

ですから親鸞聖人においては、自らが本願に帰したという一点において一切の人々を諸仏と仰いでいかれたのです。特に先祖ということも、単なる自分の肉親という意味ではなくて、その人々が私をして本願に出会わしめた縁、そういう縁として仰がれているのです。

だからこそ、浄土真宗においては追善供養ではなくて、どこまでも知恩報徳であり、報恩の仏事なのです。私をして本願に目覚ましめた、その諸仏としての恩を知り、その恩に報いる。そのように浄土真宗の仏事を貫く精神は、知恩報徳ということなのです。

浄土真宗の仏事が追善供養ではないということは『歎異抄』の第五条に端的に示されています。

親鸞は父母孝養(ぶもきょうよう)のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。

この孝養というのは、追善供養です。コウヨウではなくキョウヨウと読むときは追善供養なのです。ですから父母の追善供養のためには、一返も念仏したことはないと言われるのです。念仏は報恩の念仏だというのが親鸞聖人においては一貫した姿勢だからです。

時として「亡くなった人はどうなっているのか」と問われることがありますが、私を離して「亡くなった人は」と言っても意味がありません。私というものを、私の生きるということ離れて、魂があるのかないのか、死後の世界があるのかないのかと考えても意味がないのです。そのような問いに対して釈尊は、「それは戯れの論議だ」として、一切お答えにはならなかったと伝えられています。

私というものを離れて、亡くなった人がどうなっているか。第三者的に亡くなった人がどうなっているかをいくら詮索してみてもそれは戯れの論議にすぎないのです。戯れの論議ということは、端的にいえば、私がこの人生を生きるということとはなんのかかわりもない論議だということです。

ですから問題はなのは、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。私にとって、亡くなった人がどういう意味を持っているのかを考えてみて、私にとって亡くなった人が愚痴の種でしかなければ、やはりこれは仏というわけにはいかないと思います。亡くなった人を縁として、私が念仏申す身になるというときに、亡くなった人が諸仏になるからです。

まさに、私にとって亡くなった方がどうなっているか、私において亡くなった人がどう生きているのか、それこそが浄土真宗の問いであり、仏教の問いであると思います。

私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切が戯れの論議でしかないのです。親鸞聖人が先祖という言葉を一切用いられないで、諸仏としておられることがそのことを物語っているわけです。

これらのことを踏まえた上で、現代における本当の意味の先祖供養とは何か、ということを改めて考えていくことが大切だといえます。