正信偈意訳

寿命が無量であり、光明が無限である阿弥陀仏に、私は帰命したてまつります。

阿弥陀仏が未だ法蔵菩薩の因位であられた時、世自在王仏のみもとにましまされ、一切の諸仏の浄土の因と、その国土の人・天の善悪のすべてをみそなわし、一切の諸仏の願に超える、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発されました。五劫のあいだこの願について思惟し、ついに完全なものに摂受したのです。

この願の根本は、仏の功徳の一切をその名号「南無阿弥陀仏」に成就して十方の世界に響流せしめ、一切の衆生を救うことにあるのですが、願を建立した後、さらにこの点を偈でもって必ずや名号を十方に響流せしめ、一切衆生に聞かしめんと重ねて誓われたのです。

本願を成就された後、あまねく十。方の世界に無量・無辺・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無称・超日月の十二の光明を放って、そのすみずみまで照らしたもうたのです。この故に生きとし生けるもので、この光明を蒙らないものはありません。

まさに本願の名号のはたらきは、一切衆生の往生を正しく定める正定の業です。至心信楽の願に誓われている信楽を、衆生涅槃の真因とします。往生し等覚となって、大涅槃を証することができるのは、必至滅度の願が成就されているからです。

如来がこの世にお生まれになる理由はただ一つ、阿弥陀仏の本願の教えを説かんがためなのです。世が乱れ悪事が満ち満ちている時代の人々よ、だからこそ如来の説かれる、南無阿弥陀仏の如実の法を信ずべきなのです。

もし衆生があって、如来の言葉を信じ、念仏を喜ぶ一念喜愛の心を発すれば、その瞬間、煩悩を断ずることなく涅槃が得られます。凡夫も聖人も逆謗さえも、ただ弥陀の本願海に斉しく迴入すれば、すべての水が海に入りて一味となるがごとく、仏果に至りうるのです。

獲信の念仏者には、摂取の心光が常に照護したもうています。この者の心は、すでによく無明の闇が破せられているのです。だが悲しいことに、そうであるにもかかわらず貪愛瞋憎の雲霧が、常にこの真実信心の天に、覆いかぶさっています。ただしこの者の心は、たとえば日光が雲霧に覆われることはあっても、雲霧の下は明らかであって闇がないのに似ています。

信を獲て弥陀の法が明らかになり、念仏を敬い大いに慶ぶ人は、そのとき即時に迷いの世界である五悪趣を横ざまに超えて断ち截るのです。

一切善悪の凡夫人よ、阿弥陀仏の弘誓の本願を聞信すれば世尊はその人をして広大勝解の者とほめられこの人を分陀利華と名づけられます。

阿弥陀仏の本願念仏の教えは私たち邪見で驕慢な悪衆生には、信楽を受持することはまことにもって困難なことであり、その難しさは難の中の難でありこの難に過ぎるものはないのです。

そこで印度や西天の論家、中国や日本の高僧たちが次々と世にあらわれて、釈尊が説かれた出世本懐の教えのその正意を顕して、阿弥陀仏の本願弘誓の教法がそれぞれの時代・社会の人々に応じることを明らかにされたのです。

釈迦如来が楞迦山にましまされて、大衆のために告げられました。私の法はやがて乱れることになるだろう。けれどもその頃、南天竺に龍樹と呼ばれる菩薩が世に出て、誤って理解された仏法の有無の見をことごとく打ち破られることでしょう。そして阿弥陀仏の大乗無上の法を宣説し、みずから歓喜地を証して、安楽国土に生ぜられることになるでしょう。

この釈尊の予言のごとく龍樹菩薩は難行の陸路の苦しきことと、易行の水道の楽しきことを顕示して、易行の弥陀法を私たちに信楽せしめられたのです。阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のときに必ず正定聚の位に入ることができる。だからこそ衆生は、ただよく阿弥陀仏の名号を称して、大悲弘誓の恩に報ずべきであると教えられたのです。

天親菩薩は浄土論を造って説かれました。私は無碍光如来に帰命したてまつり、無量寿経の教えによりて、弥陀法の真実を顕して、横超の大誓願をひろめ明らかにいたします。すべての衆生は阿弥陀仏の本願力廻向によりてのみ仏果に至りうるのです。そこで自らも群生を度せんがために、一心を彰わし願生したのです。弥陀の功徳の大宝海に帰入すれば、必ず浄土の菩薩の数に入ることを獲ます。浄土の世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証することができるのです。証を得れば、再び煩悩の林に遊びて種々の神通力を現し、衆生の迷う生死の園に入ってその者に応じて教化を示されると教えられたのです。

曇鸞大師には、梁の天子が常に曇鸞に向かって菩薩と礼したてまつりました。迷える曇鸞に三蔵流支が浄土の教えを授けたところ、ただちに持っていた仙経を焼き捨てて、浄土の教えに帰依されました。天親菩薩の浄土論を註解して、報土の因果が誓願にあることを顕されました。往相・還相の廻向は、阿弥陀仏の本願力・他力によるのだということと、浄土往生が正しく定まる因はただ信心にあるということを示されたのです。たとえどのような惑染の凡夫であったとしても、ひとたび信心を発すれば、生死がそのまま涅槃であるという仏教の原理が、自ら証知せしめられることになるのです。そして必ず無量光明土に至れば、諸々の迷える衆生を皆あまねく教化する還相の菩薩になるのだと教えられたのです。

道綽禅師は、聖道門の仏道は末法の世では証果に至り難いことを決定付けて、ただ浄土の一門のみが仏果に通入すべきである道であることを明らかにされました。諸善万行の自力の修行は、いかに勤修するとも仏果には至れないとこれを貶め、浄土往生のためには弥陀の功徳円満の名号を専ら称えることを勧められました。疑うことと信じることのその根本をねんごろに教えて、阿弥陀仏の大悲のみが像末法滅、いつの時代であっても信じる衆生を誰でも同じく摂取されると説いたのです。だからこそ、どのように一生悪を造っている衆生であっても、ただ弥陀の弘誓いに値えば安養界に至りて、妙果を証することになると教えられました。

善導大師は、仏教が最も盛んであった唐の時代において、ただ独り仏の根源的な真の願いとは何かを明らかにされました。仏道を一心に行じている定善・散善の行者と、悪道に陥っている逆悪の者とをともに哀れんで、光明と名号の因縁を顕されたのです。衆生はただ弥陀本願の大いなる智慧の海に帰入すれば、阿弥陀仏はこの行者に正しくもはや絶対に破れない真実金剛の信心を受けしめます。念仏者がこの弥陀の本願に相応し、獲信の慶喜の一念を生じた後は、あたかも韋提希が救われたその歓喜と同じ心を獲るのです。すなわち法性の常楽が証せられることになると教えられています。

源信和尚は、釈尊が一生涯かけて説かれた仏教を広く学ばれたのですが、その中からことに浄土の教えを選び、ひとえに阿弥陀仏に帰依して浄土の教えを一切の人々に勧められたのです。専ら一心に念仏を修する心と、念仏に余行を雑えて修する心との深と浅を判別して、報土に往生するものと化土にしか生まれられないものとを正しく弁えられたのです。極重の悪人はただ弥陀の名号を称すべきです。このように念仏に生かされている私は、まさしく阿弥陀仏の摂取の中にあるのですが、悲しいことに私の心の煩悩が眼を障えぎって、阿弥陀仏を見たてまつることができません。けれども弥陀の大悲は倦きことなく、常にこの私を照らしつづけていて下さると教えておられます。

本師源空は仏教の真意に明らかであったために、真実、善悪の凡夫人を憐愍されたのです。そして源空上人(法然上人)は真宗の教・証をこの国に興され、阿弥陀仏の選択本願の教えをこの悪世に弘められたのです。生死を繰り返す、流転の迷いの家に還ることはまことに簡単で、ただ阿弥陀仏の本願を疑えばそれですむのです。速やかに、寂静無為の悟りの世界に入るということは、必ず真実の信心を得ることが必要なのですと教えられました。

このようにして、浄土の教えを弘めた菩薩や高僧たちが、具体的に数限りない極重の悪人を救済しされたのです。だからこそ、いまの世の衆生よ、僧侶も俗人もともに同心に、ただこの高僧たちの教説を信ずべきなのです。

(以上、依釈段)