春彼岸 お浄土に生まれし人にみちびかれ(中期) 

一般に、既に亡くなった数世代以前の血縁者全般を「先祖」といい、その方々の法要を営むことを「先祖供養」といいます。

ところが、親鸞聖人の書かれたものを見ると、その中には「先祖」という言葉は見当たりません。

先祖という言葉がないのですから、当然先祖供養という言葉も出てきません。

そうすると、親鸞聖人は先祖ということを全く気にかけておられなかったのかというと、決してそうではありません。

親鸞聖人においては、「諸仏」という言葉が「先祖」を物語られるときの言葉なのです。

では、親鸞聖人における諸仏とはどのようなことなのでしょうか。

言い換えると、亡き人が諸仏となる、私に先立って往かれた方が諸仏となるということは、いったいどのようなことなのでしょうか。

今日一般に行われている仏事は、その根底に「気晴らし」ということが透けて見えるような気がします。

法事を勤めた後、ご門徒の方が「これで気持ちが晴れました」と言われることがありますが、これを亡くなった方に対して言うと「安らかにお眠りください」という言葉になります。

つまり、亡くなった方が安らかに眠っていてくだされば、自分の生活が平穏無事に過ぎていくので気持ちが晴れるのです。

そこで、法事を勤めたことで、「亡くなられた方は、次の法事まではおとなしく眠っていて下さるに違いない」ということになり、自分の気持ち気が晴れるということになる訳です。

けれども、浄土真宗においては、亡くなった人の霊魂がどこかをさ迷っていたり、その霊魂が良いところに生まれるようにと祈ったり供養したりするようなことは一切しません。

なぜなら、浄土真宗ではこの迷いのいのちが終わった瞬間に阿弥陀如来の願いのはたらきによって浄土に生まれ仏になると教えているからです。

では、亡くなられた方が仏になっているというのは、どのようなことなのでしょうか。

親鸞聖人における諸仏とは、私をして真実の教えに出会わせてくださった縁ある人びとという意味です。

したがって、亡くなられた方が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるということにはなりません。

亡くなった方が私にとって諸仏だということは、亡くなった方から私の生が問われ、そのことが私をしてお念仏の教えに出会わせる縁となる、そういう縁となったときに亡くなった方が諸仏となるのです。

このような意味で、親鸞聖人においては、自らが念仏の教えに帰依したという一点において、一切の人びとを諸仏と仰いで行かれたのだ言えます。

そうすると、先祖ということも、単なる自分の亡き血縁者という意味に留まるのではなく、この私をしてお念仏の教えに出会わせてくださった尊いご縁として仰がれることになります。

だからこそ、浄土真宗における法事は、亡くなられた方のために行う追善供養ではなく、どこまでも知恩報徳の営みであり、報恩の仏事として営まれるのです。

それは、私をお念仏の教えに目覚めさせてくださった、諸仏としての恩を知り、その恩に報いるための仏事です。

このことから「死んだ人はどうなっているか」ということを考える場合、私を離して語っても意味のないことが知られます。

それは、私というものを離れて、霊魂があるのか、死後の世界があるのかということを考えて意味がないということです。

このような問いに対して、お釈迦さまはそれは戯論(無意味で無益な議論のこと)だとして一切答えられなかったと伝えられていますが、私を離れて第三者的に亡くなった人のことを考えても、私がこの人生を生きるということとは何の関わりもないのです。

ですから、大事なのは私にとって亡くなった人がどうなっているのかということを問題にすることなのです。

そして、もし私にとって亡くなった人が愚痴の種でしかなければ、それは仏という訳にはいきません。

やはり、亡くなった人を縁として、私が念仏申す身になるという時に、亡くなった人が諸仏になるのです。

私にとって、亡くなった人がどうなっているか、言い換えると私において亡くなった人がどう生きているのか、それが浄土真宗の問いであり、また仏教の問いだといえます。

ですから、私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切は無意味な戯れの論議でしかないのです。

親鸞聖人が先祖という言葉を一切用いられず、諸仏としておられるのはそのことを物語っておられます。

それは、亡くなられた方によって、自分の生き方が常に問われ、照らし出されて、そこで初めてお念仏の教えに深く頷くことができたということがあったということです。

そのように、自分をお念仏の教えに帰依させてくださった尊い縁となってくださった方がたとして、亡くなられた方を諸仏として仰いでいかれたのです。

自身がお念仏の教えに遇う縁となった方として、亡くなった人びとを尊んで行かれたということが改めて思われます。

私たちは、特に大切な人の死に直面したときには、言いようのない深い悲しみに包まれます。

それは、亡くなった方が生前に多くのことを贈って下さっていたからに相違ありません。

「悲しみの深さは、その人から贈られたものの重さに比例する」と言われますが、その悲しみがまた一方で、私たちを仏道に向かわしめる機縁となるのです。

それは、まさに諸仏の呼びかけともいうことができます。

彼岸会には、多くの方が亡き人を偲び墓参や本堂にお参りに行かれますが、その人をしてお墓や本堂に足を運ばせるはたらきこそ、今はお浄土に生まれて仏さまとなられた有縁の方がたのはからい、導きに他ならないことに心を寄せたいものです。