『論語』に「仁者は、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」という言葉があります。
これは「仁の心をもつ人というのは、自分が上に立ちたいと望めば人を立て、自分がある地位に到達しようと欲したら、先ずは最適と思われる人に譲りその地位につけるようにしなさい」という意味で、孔子は、むやみに敵を作らず、常に他を思いやる心で生きることの大切さを教えているように思われます。
一方、私たちの日常はどうかと言えば、何よりも自分の利益を求めることに追われ、人を押し退けて前に出たり、自分の主張を押し通した人が結果的に得をしたりすることが少なからずあったりします。
けれども、誰もがそのような生き方を最優先すると、社会は殺伐とした空気に覆われてしまうかもしれません。
だからこそ、自分の利益を後にして困っている人を助けたり、他の人を思いやったり、その人のためにあれこれ計らったりすることが、最終的には他の人びとから「有徳の人」として自分が認められることになるとのだと、教えられているのだといえます。
私たちが生きていく上で、自他の関係性について考えさせられる面白い話があります。
それは「極楽と地獄の食事の光景」です。
どちらも食事をする場所の設定は全く同じであるにもかかわらず、極楽では誰もがお互い楽しそうに和気あいあいと語り合いながらお腹一杯になるまで食べているのですが、地獄では互いに飢えに苦しみ、いがみあい悲惨な争いを繰り広げるばかりで、ひとかけらの食べ物も一滴の飲み物も口にできずにいます。
極楽と地獄は、食べる場所の広さ、机・食器・料理、そして食べる時のきまりも同じです。
ところが、不思議なことに、極楽では誰もが楽しそうに好きなものを自由に食べているのに、地獄では飢餓状態で殺し合い、誰一人何も食べることができずにいるのです。
設定は全く同じであるにもかかわらず、なぜこのように極端な違いが生じているのでしょうか。
それは、食事をする際の規則によって起きているのです。
いずれも、箸やフォーク、スプーンなど準備してあるのですが、それらはすべてかなり長く作られていて、食べる時は「その端を持って食べること」という規則があります。
そのため、自分だけの力で食べ物を口に入れることは不可能なのです。
そのため、極楽では箸でつまんだりスプーンに乗せたりした食べ物を、他の人の口に運んでいます。
自分が食べたいものがある時は、それを指さして「食べたい」と言えば、隣の人がその食べ物を口に入れてくれます。
そのため、和気あいあいと楽しい雰囲気の中で、満腹になるまで食べることができるのです。
一方、地獄ではなんとか食べ物を口に入れようと必死に頑張るのですが、箸やスプーンはその端を持たなければならないので、食べ物を口にすることはできません。
そうなると、できることは相手の邪魔をすることだけで、それがエスカレートして互いに殺し合うことになってしまうのです。
この地獄の姿は、日常生活に見られる「他を押し退けて自分が前に出ようとする姿」と重なって見える気がします。
では、極楽のような他と助け合う在り方はどうでしょうか。
私たちは、他の人のために何かをすることは、容易なことではないように思われます。
けれども、よく考えると、これは実は何でもないことかもしれません。
仏教に「無財の七施」という言葉があります。
これは、まったく財産を持っていない者でも、七つの施しができるということで、具体的には他人にやさしい言葉をかけたり、微笑みを持って他を迎えたり、老人や病人に座席を譲ったりするといった事柄です。
これらの行為には、財産の有無は関係ありません。
しかも、少しの勇気があれば、誰にでも実践できる行為です。
私たちは、まずは他人の利益のために、ほんの少しでも心を配る。
そのささいな行為の積み重ねが、やがてその人の徳を深めることになり、同時に我が身を立てることになるのではないかと思われます。