かくして為政者たちの間に一向宗は嫌だなといった雰囲気がいよいよ醸成されてきました。
たとえば島津家十六代の義久の家老上井覚兼の日記の天正十三年(1585)九月十五日条に一向宗徒を摘発して宗旨替えを命じて、それを拒否するものは、生害せしめる、殺してしまおうといった強硬な意見が出たことが記されています。
また、島津家十七代義弘の家老で新納旅庵といった人物が文録・慶長の役で、朝鮮に出兵していた島津義弘に対して、「留守中に武士身分の一向宗徒がいたならば、摘発してさらし首にしたいと思いますがいかがでございましょうか」といった手紙を送っています。
このようにして一向宗徒の摘発と処分がいよいよエスカレートしていきました。
4真宗禁止令の発布と初期の門徒摘発
そしてついに室町時代の末期慶長二(1597)年二月二十二日、再度の秀吉の朝鮮出兵に従軍した島津義弘が、自分の留守に際して掟書二十二カ条を発布しました。
その中の最後の条で
一向宗之事、先祖以来御禁制之儀ニ候之条、彼宗躰になり候者は曲事たるへき事
と、一向宗禁止令を発布しました。
これが真宗禁止令の初見です。
この中で「先祖以来」とあり、先祖はどこまでさかのぼるかといった問題が残りますが、ここで先祖といいますと、前回申しました「魔のしょいか云々」とう歌を残している島津忠良が先祖にあたるのではないかと考えらます。
ともかく法律として一向宗の禁止令はこれが初見です。
かくして室町時代の末期、慶長二年から明治九年に至るまで、真宗は三百有余年の間一貫して禁止されることになりました。