「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉があります。
辞書には、「循環」とは「経路をくりかえしめぐること」、「彷徨」とは「あてもなくさまようこと」と説明されています。
何も目印のないところ、例えば砂漠とか雪原などのような場所で、自分の感覚だけを頼りにして歩いて行くと、200m進むと必ず5m横にずれてしまうのだそうです。
そのため、自分ではひたすら真っ直ぐに進んでいるつもりでいても、進めば進むほど横にずれて行ってしまうので、ついには大きな円を描いて出発した地点に戻ってしまうのだそうです。
そして、どれだけ歩いても、同じところをぐるぐる回ってさまようことになり、結局最後には力つきてしまったりすることがあるそうです。
これを「循環彷徨」というのだそうです。
この「循環彷徨」で興味深いのは、ずれる場合、利き腕の方向にずれてしまうということです。
右利きの人は右の方向に、左利きの人は左の方向にずれてしまうのです。
それは言い換えると、得意な方にずれるということです。
私たちは、苦手なことに対しては慎重になったり警戒したりするものですが、得意なことにはあまり注意を払うことはしないものです。
そのため、苦手なことよりも、むしろ得意なことによって迷ってしまうのだといえます。
そうすると、私たちは生活の中に、常に自分の歩みを正してくれる「目印」を持たなければ、人生の最期にその全体を振り返った時、どれほど懸命に生きたとしても、「結局はぐるぐると堂々巡りをしていただけだったな」と、ため息をつくことになりかねません。
では、人生において「目印」を持つというのは、いったいどのようなことなのでしょうか。
善導大師は、「お経に説かれる教えは、私の姿を映し出す鏡のようなものだ」と述べておられます。
なぜなら、仏さまの教えとは、どこかの誰かのことを語っているのではなく、この私のことを明らかにする教えだからです。
そう言われても、私たちは誰よりも自分が自身のことは一番よく知っていると思っています。
ですから、仏さまの教えを聞くこともなく、自分の思いだけを頼りにすることで、十分に生きて行くことができると思っています。
けれども、実は自分のことをよく分からないままに突き進み、得意な方向にずれながら、その事実に気づくこともなく、流れ転がるように迷いの世界をさまよい続けています。
これを仏教では「流転」といいます。
蝉は、夏を代表・象徴する生き物ですが、もし蝉が私たちと会話ができるとして、蝉に「今、何という季節か分かりますか」と尋ねると、蝉は「分かりません」と答えるに違いないと言われます。
それは「四季を知る者のみが、今季節は夏だとか秋だか答えることができる」からで、夏しか知らない蝉は、夏を夏だとは知り得ないが故に「分かりません」と答えるに違いないと言われるのです。
そうすると、迷いの中にしかない者は、自分が迷っていることに気づくことができないということになります。
だからこそ、私は今日まで流転を繰り返してここに至っているのですが、だからこそ真実に目覚められた仏陀(お釈迦さま)の語りかけに耳を傾ける必要があるのだと言えます。
では、人生において「目印」を持てば…、言い換えると仏さまの教えを鏡として生きようとすれば、毎日の生活の中での悩みや苦しみが全て消えたり、抱えている問題に直接的な答えが与えられるのかというと、残念ながらそのようなことはありません。
確かに、生活の中での苦しみや悩み、さまざまな問題を何とか解決しようとすることはとても大切なことです。
けれども、人間として生きている限り、悩みや苦しみが消えることはありませんし、問題も次から次に起きて来るのが私たちの人生そのものです。
言い換えると、生きるということは、いろいろな苦悩や問題を抱えることにほかならないなのです。
そうすると、私たちが仏さまの教えを聞くことには、どのような意義があるのでしょうか。
お経は「スートラ」というのが原語ですが、これは「縦糸」という意味です。
織物を折る時には、縦の糸がきちんと張られていないと美しい模様にはならないそうです。
そうすると、生活の中で仏さまの教えに耳を傾けるということは、人生に縦糸を張るということだと思います。
一方、日々の生活におけるさまざま出来事や経験は横糸です。
縦糸がきちんと張られていれば、嬉しいことや楽しいことは言うまでもなく、辛いこと、悲しいこと、苦しいこともそこに全部織り込まれて行きます。
もちろん、嬉しいことや楽しいことはたくさんあって欲しい一方、できれば辛いことや悲しいことなど無いにこしたことはありません。
けれども、「人間には悲しみを通さないと見えてこない世界かある」とも言われます。
悲しみをくぐった後、今まで「当たり前」と思っていたことが「そうではなかった」ことを知ったり、見落としていたことに気づいたりすることもあります。
このような意味で、仏さまの教えを鏡にして生きようとすることによって、私たちは人生のどんな問題においてもそれを投げ出さずに受け止めていける、勇気や情熱をたまわることができるのだと言えます。