2021年8月法話 『偲恩 拝まない時も 拝まれていた』(中期)

実は「偲恩」というのは仏教語ではなく、いわゆる造語なのですが、文字を見ると「恩を偲ぶ」ということを言い表そうとしていることは容易に想像することができます。近年は、寺院に設置されている納骨堂を希望される方が増加する傾向にありますが、「亡くなられた方のご恩を偲ぶ場所」という意味で、納骨堂に「偲恩堂」という名称を用いている寺院もあったりします。

実際、納骨堂に「偲恩」という言葉を用いておられる寺院のホームページには、

“恩”という字は、因(よりどころ)に心と書き、「自らがこの世にいのちを恵まれ、育てられたよりどころを深く偲ぶ」という意味で、先祖のご遺骨が安置されたお墓にお参りし、仏さまとのご縁を結び、報恩感謝の生活を送るところに、人間が真に人間らしく生きる道が開かれます。

と、その言葉の意味が丁寧に述べられています。この説明から、「偲恩」ということの意味を十分に窺い知ることができます。

ときに、古代インドの原始仏教においてこの「恩」という言葉は、「他者によって自分のためになされたことを知り、それに感謝すること」と理解され、重要な社会倫理であると説かれていました。この説明で用いられる古代インドの表現「krta(なされたる)」、「upakara(援助・利益)」が、中国では「恩」という言葉に翻訳されました。

原始仏教における「恩」についての社会倫理の概念は、やがて「四恩」の概念へと発展していきます。 『正法念処経』では、「母親、父親、如来、説法してくださる法師からの恩」の四恩が説かれました。また、『大乗本生心地観経』では、「父母、衆生、国王、三宝」の四恩が説かれています。 また、中国では親の恩に報いる「孝」の倫理を極めて重視する儒教が浸透していたことから、親の恩と孝を説く『父母恩重難報経』が尊重されることになりました。

仏教では、自分がめぐみを受けていることに気づくこと、自覚することを「知恩」と言い、これを重視していますが、古代インドの言葉で「trsna(渇愛)」や「priya(親の情愛)」も漢語で「恩」と訳されることがあり、そちらのほうは、仏教の修行の妨げになるものと理解されています。

ところで、この「恩」という言葉ですが、欧米にはこの恩という概念はないのだそうです。もちろん、当然のことながら他の人から何かしてもらった時、その具体的な行為に対して発する「ありがとう」という言葉はあるのですが、深い恩を感じるというような、「恩の感覚」というものはないのだそうです。そういったことから、アメリカでは世代間の断絶ということをいかにして解消するかという課題に対して、日本人のこの恩という概念、恩という心が大切なのではないかということで、ローマ字でそのまま「ON」と表記して、日本人の持つ恩の感覚や心を研究し、その成果によって課題を克服していこうとしている学者がいるそうです。

この「恩」という言葉ですが、中国の後漢時代に著された『説文解字』において、「恵(めぐみ)という意味」だと解説されていたことから、日本でも『日本書紀』や『古語拾遺』には「めぐみ」「みうつくしみ」「みいつくしみ」などの読み方がなされていました。この「めぐみ」という言葉の語源は、「菜の花が芽ぐむ」などと表現する時の「芽ぐむ」という言葉を名詞の形にしたものとされています。「芽ぐむ」というのは「芽が出始める、芽吹く」ということなのですが、それは木や草が芽ぐむのは、冬の間は眠っていた草木の生命力が春の陽気によってはぐくまれて目覚めるからです。このことから、他の者に命を与えたり命の成長を助けたりすることが「めぐみ」を与えることであり、恩をほどこすことと理解されてきました。それと合わせて、その逆の立場が、めぐみを受けること、恩を受けることと理解されています。

また、恩は、狭い意味では「人からさずかる恵み」を指していますが、広い意味では、この世界全ての存在からさずかる恵みも指しています。したがって、 仏教では、自分が受けている恵みに気づき、それに感謝することを重視しています。このことから、自分がめぐみを受けていることを自覚することを「知恩」と言い、めぐみに報いることを「報恩」と言います。 その一方、恵みを受けているにもかかわらず、自分が受けている恵みに気付かないこと、恵みに感謝しないこと、恵みに報いようとしないことなどを「恩知らず」と言ったりもします。

浄土真宗では、「報恩」ということをとても大切にしています。この「報恩」の心は、自分がいかにその方から恩を受けているかを知ることによって、自ずから生まれます。そうすると、恩を知ることによって、人は必然的にその恩に報いようすることになるのですが、その対象が亡くなられた方である場合は、その方の生前の遺徳を偲ぶことによって恩を知ることになります。

一人の人の死を悲しみ悼むというとき、その人の死が悲しいという心の奥底には、やはりその人によって贈られたものがあるからにほかなりません。もし、何も贈られていないとしたら、それほど悲しいということはありませんし、ときとして無関心でいられるかもしれません。けれども、その人の死が私にとって深い悲しみになるということは、その人から多くのことを贈られていたからなのです。つまり、悲しみの深さというものは、その人の一生から贈られているものの大きさだったのだといえます。

このような意味で「偲恩」とは、亡き人から贈られたものを確かに受け止めるということだといえます。この場合、亡き方をどのように受け止めていくかということが大切になります。亡くなった方がどうしておられるかということを語る場合、私を話して語ってもそれは無意味なことでしかありません。なぜなら、私というものを離れて、第三者的に亡くなった方がどうなっているかを語っても、それは戯れの論議に過ぎないからです。

時折、自分や家族に不幸が続いたり、負の連鎖的なものから抜け出せないでいたりすると感じると、「先祖が迷っているのではないか」と相談される方がおられますが、私にとって亡くなった方がそのような愚癡の種にしかならなければ、少なくともその方は仏さまというわけにはいかないと思います。迷いを滅した存在が仏さまなのですから、迷っているとすれば、それは仏さまとは言い得ないからです。

私たちの日常は、いろいろなことに追われているとあっと言う間に過ぎ去っていきます。一日が、一週間が、一カ月が、そして一年が…。それは、自分のことだけで精一杯だからだと思われます。そのため、亡き方や先祖の方々に心を寄せているのは、ご命日やお盆、お彼岸といった時だけで、忘れている時の方が圧倒的に多いといえます。

その数少ない「亡き方々を偲ぶ機会」に痛感すべきこと、それはまさに「拝まない時も拝まれていた」ということではないでしょうか。それはまた「亡き人を案じる私が亡き人から案じられている」ことに気付いていくことだといえます。