2021年8月法話 『偲恩 拝まない時も 拝まれていた』(後期)

横断歩道で信号待ちをしていた時のことです。

一人で歩けるようになったぐらいの小さな子どもとお母さんがいらっしゃいました。

歩けるようになったばかりの子どもは好奇心旺盛で、気のむくままに動き回ります。

お母さんと手を繋いでいましたが、その子が勢いよく手を振ったかと思うとお母さんと手は離れ、まだ赤信号の道路に向かいフラフラと歩きだしました。

危ないと思った次の瞬間、お母さんは言葉よりも先に両手で我が子を抱きかかえた後、「危ないから気を付けないと駄目だよ」と話しかけていました。

ふと、わが身を振り返る出来事になりました。

私という人間は、どこまでいっても身勝手です。

自分にとって損か得か、受けた恩は水に流し、受けた仇は石に刻み、いつまでも憎しみや怒りの心を持ち続けます。

たとえ行動に移さず、口にしなくとも、その心の内では家族やパートナーにさえ見せることのできない思いや感情を持っているものです。

南无阿弥陀のお念仏をお伝えくださった親鸞聖人は、このような人間の姿を「凡夫(ぼんぶ)」といただかれました。

凡夫というのは、わたしどもの身にはあるがままのありようを理解できないという、最も根本的な煩悩、迷いの根源が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起こり、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、…

命終わろうとするそのときまで、私には迷いの根源が満ちているというのです。

仏法に出遇うことは、この私の本当の姿を知らされることから始まります。

自分さえよければいい、自分に関わることだけの幸せばかりを願ってはいないでしょうか。

都合が悪くなったときだけ、自分の願いを叶えたいときだけ仏様や神様、手当たり次第にお願いごとをしてはいないでしょうか。

では、その願いが叶わなかった時はどうするでしょうか。

浄土真宗では、私が願う(望む)よりも先に、この私のことが心配で仕方がないと「南无阿弥陀仏」と姿・形を変え、いついかなる時も共にいてくださる仏様を阿弥陀さまとお聞かせいただきます。

阿弥陀さまから見ればこの私の存在は、冒頭の幼子のようにフラフラ気の向くままに歩き回り、欲望や怒りに流されていることに気付かず日暮らしをする危なっかしい姿をしています。

そのような私だからこそ、今すぐにでも抱きかかえてあげなければいけないと、いつでもどこでも「南無阿弥陀仏」と傍にいてくださり、決して見捨てることなく、たとえ離れてしまっても追いかけてお救いくださるのが阿弥陀さまのおはたらきです。

私の方から願い求めなくても、私が忘れていたとしても、私が心配するより先にこの私のいのちを必ず救うと喚(よ)び続けてくださるのが阿弥陀さまであります。

阿弥陀さまのお心を聞かせていただきながら、自身の内面を見つめる時間を少しでもいただきたいと思います。

合掌
南無阿弥陀仏