残暑の厳しい9月。秋らしい気配を感じるには、まだまだといったところでしょうか。
9月は秋のお彼岸を迎える季節。多くの方々が懐かしいお顔を偲びつつ、手を合わせ、仏様を敬い、讃え、仏教の心に触れる、仏教週間といってもいいかもしれません。
今月の言葉の冒頭、「帰去来(いざいなん)」とは、七高僧のお一人、中国の善導大師の顕されたお言葉で、親鸞様もこの言葉を引用して、
『帰去来(いざいなん)、他郷(たきょう)には停まるべからず。
仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、
一切の行願、自然に成ず。』と示されました。
帰去来をもっと身近な言葉で言えば、「さぁ、帰ろう」
私たちにとって究極の安心とは、帰って行ける場所があるということではないでしょうか。お出かけや旅行が楽しいのも、最後は帰るべき「我が家」があるからこそ。
「おうちに帰ろう」と聞けば、どことなく心身の緊張感がほぐれ、なんとも言えない心の安らぎを感じる方もおられることでしょう。
私は高校進学の際、親元を離れて県外に出ましたが、ふるさとを離れて初めて「故郷」の有難さというものを実感しました。
夏休みなどの長期休み前になると、それはそれはワクワクしたものでした。早々に切符を求め、その切符を何度も見返しては眺め、帰省の日を指折り数えて心待ちにしていたものです。あの高揚感は今でも覚えています。
皆さんにもそれぞれに故郷や、故郷と呼べる居場所や空間があると思います。けれども、私たちが故郷と感じているところは、時代の移り変わりや生活環境の変化によって当然その姿も趣も変わってくるはずです。
「おかえり」と迎えてくれた両親や家族の姿。それもまた私の成長と共に親も齢を重ね、その光景も懐かしさに変わっていきます。
今度は自分たちが、「おかえり」と子どもたちの帰りを待つ身にいつかはなっていきます。
そのように、何一つ変わらないものなどこの世にはなく、川の流れや四季の移ろい、子どもの成長を実感するのと同じように、常に移ろう世界の中で出会いと別れを繰り返しながら私たちは生きています。
親鸞様のお手紙の一節に、
『この身は、いまはとしきわまりてそうらへば、
さだめて、さきだちて往生し候はんずれば、
浄土にて、かならず、かならず、まちまいらせそうろうべし。』
と言葉を残されています。
私はここに示される「往生」という言葉を、仏教の要といつも聞かせていただいています。命は間違いなくいつ終わってもおかしくない私たちの生きる命ですが、お浄土の阿弥陀様は、「生まれておいで、帰っておいで」と呼びかけてくださる仏様です。亡くなるのではなく、生まれていくお浄土と聞かせていただくことです。
彼岸の浄土に生まれし多くの懐かしきお顔も今は浄土の仏様となり、「また会いましょうね」と、私たちの帰るべき世界をお浄土と示し、伝えてくださっています。
さあ、帰ろうと、彼岸の浄土に思いをはせ、安心してこの人生を歩んでいける心を養う、秋のお彼岸といたしましょう。