2022年7月法話 『蝉しぐれ 今日の一日を惜しみつつ』(前期)

毎日暑い日が続いています。こんなに暑いと、「いっそのこと早く冬がきてくれればいいのに」と思うのですが、けれども、冬になったらなったで「こんなに寒いのなら夏の方がいい」と言っていることでしょう。結局、夏でも冬でも、その時そのときで「愚痴のなくならない自分がいるなぁ」と思うことです。

山と川に囲まれた私の住んでいる地域では、夏になると蝉の鳴き声が周辺にこだまするように響き渡っています。ちょっと横になって昼寝をしようとすると、その蝉の声がやかましくて眠れないときがあるほどです。

しかしながら、ふと蝉の側に立って思いをめぐらすと、蝉は何年もの間、地中で春夏秋冬の四季を過ごします。そして、ようやくこの夏、地上に出てきたのですが、その命はわずか一か月足らずです。

そうすると、その小さな体で懸命に鳴き続けている姿は、今ここにこうして生きているということを精一杯世の中に伝えようとしているかのように思われます。

そのことに思いが至ると、それまでは「やかましいなぁ」と感じていた蝉の声が、今度はまた何ともいとおしく感じられます。地上に出てきてから日々鳴き続け、いただいたいのちを一日一日精一杯に生き、間もなくいのち終えていく。その視点から鳴き声をきいていくと、さて自分は一体どうなのだろうかと、ふと思います。

常日頃から「この世は無常の世界である」と聞かせていただいておりながら、まわりの縁ある方々が、一人また一人とお亡くなりになられても、どこか他人事のように過ごしています。そして、自分だけは「今日も大丈夫、明日も大丈夫、明後日も大丈夫」と、無意識のうちに不確かなものを確かなものとしてとらえてしまっています。

そのような私に対し、ふりしきる蝉の声は「あなたの今のままで死ねますか。いのちは、いついかなる時に、どのようなご縁で尽きてもおかしくありません。そのような不確かないのちを生きているのですよ。早くそのことに目覚めなさい」という仏さまの教えと重なって聞こえてくる気がします。

一生懸命にそのいのち輝かせ、生き尽くして死んでいった蝉の死骸をみながら、我が身を振り返り、ただ静かにお念仏申すことです。