2022年6月法話 『見えるものだけがすべてではない』(後期)

私たちの日常は、生物であれば筋肉や骨格で組織されたもの、機械であれば部品や配線などの組織で成り立っている「形態(けいたい)」の領域(目で見ることができる領域)と、形として目で見ることが難しい「無形態」の流動領域とがあります。そして、その「無形態」領域の代表的なものが「時間」「空気」「日光」です。しかし、いずれも日常的に接していながら「無形態」ですので直接に、目で見ることはできません。そこで「時計」「温度計」「風速計」などの「形態」を介し、数値化することで、その「はたらき」の一端に触れることが出来ます。

そして長い歴史の中で、目に見えるもの(形態領域)は変遷、進化もしつつ、形が見えないもの(無形態領域)との関係性の中で、ある意味でバランスを保ってきました。しかし、現在は見える世界に偏重(へんちょう)し過ぎ、環境破壊が猛烈に加速しています。事実は、見えない世界が見える世界を支えているのですが・・。

 

仏教の教えにおいても、同様のことが言えるようです。お釈迦さまは、人間の行為には、「身・口・意」の三業(さんごう)があると教えて下さいました。「身業(しんごう)」とは身体的な動作(目に見えるもの)、「口業(くごう)」とは言語活動、「意業(いごう)」とは心中のはたらきを指し、直接、目には見えないものです。そして「三業」のうち、「意業」が最も重要であるとするところに仏教の特徴があり、意業から、口業・身業に派生していくと説かれています。わかりやすく言えば、「臭(くさ)い匂(にお)いは、もとからたたなきゃダメ」ということです。よく「心にもないことを」という言葉を発しますが、「心内にあれば色外に現る」で、心のなかで思っていることは、自然と顔色や動作などに現れるのです。例えば、ACジャパンの2012年度キャンペーンCMには

「こころ」は だれにも見えないけれど 「こころづかい」は見える
「思い」は 見えないけれども 「思いやり」は だれにでも見える

とありました。まさしく「見えるものだけが、すべてではない」のです。それどころか、もっと深く見つめると、直接に目で見ることができない「意業」こそが、見える世界の根底にあり、強い影響力を持っていることに気づかされます。そして「意業」の根源をなすのが三毒(さんどく)の煩悩(貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち))です。これらの煩悩が、日常生活における「業縁」に触発されて、「口業」(妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご))となり「身業」(殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪婬(じゃいん))となって、目に見える形で表面に露呈して悩みや苦しみを増長させるのです。

「罪の人々み名をよべ われも光のうちにあり
まどいの眼には見えねども 佛はつねに照らします」(正信偈の意訳)

源信和尚は、<罪の人々よ>と呼びかけられています。この罪の人々とは、一体誰のことでしょうか。隣の人々のことではありません。<罪びと>とは<私自身>のことです。「俺はこれまで、別にこれといって悪いことをしたこともないのに、何が罪びとだ」と考えられるかも知れません。普通、世間で「罪人」「悪人」というと、犯罪をおかした人、ひとを欺(あざむ)いたり、殺(あや)めたりした人間のことをいい、それ以外の人まで、「悪人」といわれることはあまりありません。しかし、仏教で説く「行為」(業)とは、実際に体で行ったこと(身業)だけでありません。口で言ったこと(口業)、心で思ったこと(意業)も、同じように「行為」と考えます。心のなかで、どんなに罪深いことを考えても、口に表したり、実際に行ったりしなければ法律的には問われることはありません。

しかし、仏法では「意業」として行う悪が、最も罪が重く、私は<罪人><悪人>であるというのが、いつわらざる私の相(すがた)であると説かれます。源信僧都は、「まどいの眼には見えねども 佛はつねに照らします」と阿弥陀さまのお慈悲をいただかれました。