私たちは、自分の見えないものはなかなか信じようとしませんが、自分が見たものは信じられると思い込んでいたりします。けれども、本当に見えるものだけがすべてなのでしょうか。そのことについて考えさせられる事柄が、大乗仏教の教義をまとめた『摂大乗論』という書物の中に述べられている「蛇縄麻(だじょうま)のたとえ」です。
ある人が闇夜に一人で歩いていると、道に何か細長いものがいました。「蛇だ」と思って驚きじっとしていると、まったく動かないので近寄って見ると、それは縄でした。そして、その縄だと思ったものを手にとって見ると、それは単に麻を編んだものでした。
もし、最初に見て思ったものが正しければ、その物体は「蛇」ということになるのですが、よく見るとそれは「縄」で、手にとってみると「麻」を編んだものだったというのですから、見えたものに対する判断の正否を問題にするなら、蛇に見えたが実は麻だったのですから「間違いだった」ということになります。
哲学者のゲーテは、「私たちは知っている物しか見ない」と述べていますが、確かに私たちは、目の前のものであっても、自分がそこにあると想定している範囲内でしか、対象を認識いることができないのです。言い換えると、対象物を見るときは、自分の知っているものにあてはめてそれを理解しようとするということです。
また、この「見る」ということについて、縁あって仏教の思想にふれた社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、イギリスの詩人・アルフレッド・テニスンの詩と松尾芭蕉の俳句を並べて、次のように述べています。
テニスンは、
ひび割れた壁に咲く花よ
私はお前を割れ目から摘み取る
私はお前をこのように根ごと手にとる
と、詩っています。一方、芭蕉は
よく見れば なずな花咲く 垣根かな
と詠っています。
フロムはテニスンの詩について「テニスンは花を見るのに『摘み取る』必要があったようだ。『根ごと』手に取って、自分の前にかざし手の上でその花を細かに見る。そして、根から茎から葉から、お前のすべてが分かったときに〈神が何か、人間が何かを知るだろう〉と詠っている」と。さらに「テニスンが花をよく理解する。それは結構なことだが、けれども、そのために花は『いのちを奪われる』ことになると結んでいます。
一方、芭蕉の俳句については「ところが芭蕉の方は、花を見ても、手に取ろうとしていない。さわることさえしていない。ただ、よく見る。つまり、自分がその花に近づいて見るだけだ」と。つまり「はじめは、何もない寂しい垣根だと思ったけれども、よく見ると、そこになずなの花が咲いていた。小さな花がそれぞれ一生懸命に咲いている」と。
ここで述べられている「よく見れば」という行為は、限りなくその花の中に入っていこうとすることです。それは、テニスンと芭蕉とでは、「見る」ということに、大きな違いがあるということです。一つは、自分の手に取ってあれこれと分析して見るというあり方ですが、結果としてはいのちを奪い取ることになります。もう一つは、どこまでも自分がその中に入っていくというあり方です。後者の在り方を物語る「よく見れば」ということは、「私はこれで花のすべてを理解したとは決して思わない」ということです。
私たちは、周囲の人たちのことを「私はこの人を理解している」と思っていたりしますが、そう思ったときは、その人から心が離れてしまっているときだといえます。なぜなら、「この人はこんな人だと分かった」と思ったときは、心の中でその人にレッテルを貼って、全部分かったつもりになってしまっているからです。他の人への興味や関心は、「分からない」ということに起因するのですから、分かったと思ったら、興味・関心を失うのも当然のことだといえます。
「よく見れば」は、限りなく、よく見るのです。決して、その人を自分の前に置いて自分の物差しで測ったり分析したりするのではなく、どこまでもその人の中に自分が限りなく近づいていこうとするのです。
そうすると、私たちは、自分の周囲の人や物事を、いつも自分の物差しで測るような見方をしている限り、生きているその人のことや物事が実のごとく見えるということは決してありません。
「見えるもの」とは、ともすれば「自分が見ようとしているもの」であったり、「知っている」ものだったりします。けれども、それは決してすべてではないことを知っておかないと、「見えないこと」を恐れたり、惑ったりすることになるのだといえます。