仏教が迷いの世界として説いている六道の一つに「餓鬼」があります。餓鬼とは、インドのプレータ(Preta)という言葉がもとになったもので、直接の意味は「逝けるもの」ということです。
一般に餓鬼というと、『餓鬼草子』などに見られる、喉は針のように細く腹ばかりふくれあがった姿をイメージしますが、餓鬼には三種あると説かれています。一は「無財餓鬼」です。これが、一般に考えられている餓鬼の相で、まったく食べる物も飲み物もなく絶えず飢えている存在です。二は「少財餓鬼」です。膿とか血とか、他人が何か飲んだ時に口元から落ちるしずくなど、ほんのわずかのものを口にできる存在です。三は「多財餓鬼」です。他人が施したものや食べ残した物を食べることができるだけでなく、非常に富み楽しんでいる存在です。一般に餓鬼というと、何も口にすることができず飢えている相だけを想像するのですが、これら三つの相を通して知られるのは、なくて飢えている餓鬼と、あって飢えている餓鬼の両方がいるということです。
『仏説無量寿経』の中で、三毒の煩悩の一つである「貪欲」について「尊いものも、卑しいものも、貧しいものも、富めるものも、ともにお金のことに心を煩わせている。欲に苦しめられていることにおいて有無同然である」と、説かれています。財産を持たないものだけが「欲しい」という貪りの心に苦しんでいるのではなく、持っているものは、たくさん持っていることで、いよいよ「もっと欲しい」という心に苦しんでいるといわれています。まさに「有無同然」、つまり私たちの中から「欲しい」という心が消え去ることはなく、持っている者も持っていない者も貪る心によって迷い続けているという点では、どちらも同じなのです。そのことはまた、「田が有れば田を憂い、宅があれば宅を憂う」という経典の言葉によっても教えられています。
このことから、餓鬼という言葉が言い当てようとしているのは、いかなる状況にあっても足ることを知らず貪り続ける存在のことだと言えます。餓鬼とはまた、土地とか装飾品といった自分の外のものによって自分を満たそうとする在り方でもあります。そして、自分以外のもので自分を満たすということは、端的には自分がなくなっていくということです。なぜなら、外のものを自分の中に詰め込めば、自身はなくなってしまうからです。例えば、狭い部屋にベッド、机、タンス、テレビ、ソファー、冷蔵庫など、いろいろな道具を押し込んでしまうと、自分の居場所がほとんどなくなってしまいます。部屋の中にいろいろなものを取り込むことによって、満たされるどころか反対に身動きができなくなってしまうのです。また、自身を豪華な衣服や装飾品などで、どれほども飾っても、それで自身の内面まで豊かになるわけではありません。むしろ、持てば持つほど、さらに多くのものを持とうとすることで、結局自分を失ってしまうことになるのです。
これに対して、浄土とは「具足の世界」だといわれます。「具足」というのは、物事が十分に備わっていること、あるいは揃い整っていることです。けれども、浄土が具足の世界だということは、決して多くの宝が満ち溢れているということではなく、必要なものが必要なときに必要なだけあるということです。言い換えると、それはあるだけで十分ということです。そして、あるだけで十分という心においては、あるものを本当に使い切ることができます。
一方、私たちは、それが本当に必要なものかどうかということはさておき、目にして「欲しい」と思ったりすると、あれもこれもかき集めたりします。では、それらを十分に使い切っているかと問われると、使わないままにしていることが少なからずあります。「持っている」ということと「使っている」ということは、同じようでもその内実は全く違うのですが、持つことによって心を満たそうとするあり方においては、あればある、なければないで、そのことによって常に自分を見失ってしまうことに陥ります。まさに「有無同然」ということですが、これこそがまさに餓鬼の本質ということになります。
けれども、現実の社会においては、「お金が欲しい」ということに始まり、「家が欲しい」とか、「車が欲しい」とか、いろいろな欲しいという思いが渦巻いています。人は、それを「夢」という言葉で言い換えたりしていますが、「人の夢」と書いて「儚(はかな)い」と読むことからも知られるように、なかなか叶わないのが現実です。では、「夢のすべてがかなう世界」はないでしょうか。その人間的な夢が、人間的に満たされた世界が迷いの世界の一つ「天上界」です。私たちが、日頃「こうなったら良いのに…」と思っていることのすべてがかない、しかも辛い、悲しい、苦しいといった憂うべきことは一つもなく、喜びと楽しみに満ちあふれた世界だと説かれています。したがって、天上界に生まれた者は、天にも昇る喜びや心地がするといわれます。ただし、それは思いがかなったその時だけのことで、やがて馴れてくるとすべてが当たり前になり、当初の感激は薄れ、後に残るのは退屈だけになってしまいます。つまり、夢という言葉で追い求め続けていたものは、いわゆる「幻の楽しみ」ということになります。
私たちは、欲しいものを手にできなければ、そのことを嘆くことがありますが、たとえ欲しいものを手にしたとしても喜びはその瞬間だけで、すぐに「もっと、もっと」という欲望に振り回され続けることになります。まさに、なければないことによって苦しみ、たとえ欲しいものを手にしても喜びは一瞬にして消え去り、さらに「もっともっと」という貪りの心に自分を見失ってしまうことになります。このことを踏まえて、仏教は『欲少なくして足るを知る(少欲知足)』ことの大切さを教えています。