ご講師:千葉善英さん(節談説教光明寺住職)
浄土真宗のご開山親鸞聖人は、比叡の山で修行され、20年間のご苦労を積まれました。
そうして我が身を知り尽くされた結果が、
「我が身は罪悪のかたまりなり」
というお歎きだったんです。
悪条件が重なったら、何を考えるやら何をしでかすかわからんのがこの私。
「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいをもすべし」
と仰っておいでです。
偽りへつらい、真実の心、まこと一つないのがこの私。
こんな私に人生を行けと仰るなら、行くべきところはたったひとところ。
地獄しか行きようのないこの私でございます。
そんな私がここにおるから、阿弥陀さま、すなわち“親さま”によるお救いがあるんです。
五劫という果てしなく長い間のご思案と、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い間ご苦労して下さって、全ての悲願を成就して出来上がったのが弥陀の本願。
南無阿弥陀仏の六字の名号です。
「南無」の二字は「たのむ機なり」。
「阿弥陀仏」の四文字は「たすけたもう法なり」といいます。
「機」と、人びとが阿弥陀如来に全ておまかせする信心のこと。
そして「法」とは、あらゆる人びとを決してもらさず見捨てず、必ず救うという阿弥陀仏のおはたらきのことです。
たのむ機もたすけたもう法も、“親”の方から成就し、機法一体となり、願行具足と調えてくださいました。
そして
「安心せえよ。そのままそのまま来いよ」
とお喚び下さる喚び声が南無阿弥陀仏のお念仏なんですね。
だから、私たちはお念仏をいただかなければいかんのです。
いただくということはどういうことか、ここで一つの例を通じてお話しさせていただきましょう。
先日、うちのご門徒さんのお宅で、生後7カ月の赤ちゃんが亡くなりました。
そこへご法事に行ったんです。
そのお宅のお仏壇には、お母さんが自分で搾ってコップに入れたお乳が供えられていました。
「お母さん、これどうなさいました」
と聞くと、お母さんが泣きながら、
「ご院さん、私の乳が張って張って、痛くて痛くてならんのです。だから、我が子が乳をほしがっとるんじゃと思うて、乳を搾って、どうぞいただいいてくれよと、お供えをさせてもろうとるんです」
と仰ったんです。
そのお乳は、お母さんから出たものですが、お母さんには用事がないんです。
赤ん坊がお母さんのお腹の中にできたら、母の体はどうなるかというたら、食べたまんまが乳と化してくるようになりますね。
母親というものは、午前2時であろうが、午前3時であろが、子どもが泣いたら目を覚ましては、乳房を含ませて、よい子になれよと願います。
育てて下さるのは母ですが、お乳を飲むのは赤ん坊の力なんです。
飲む力がなかったら、赤ん坊は大きくなりません。
それと同じように、私たちも如来さまの赤ん坊なんです。
だから、赤ん坊がお乳をいただかなきゃいけないのと同じように、私たちはお念仏をいただかなければならないんです。
そして、どこからいただくかが大事です。
赤ん坊は乳を口からいただきますね。
お念仏はどこからいただくかというたら、耳からいただくものなんです。
我が称え、我が聞くなれど南無阿弥陀仏。
連れて帰るその親の喚び声なんです。