み仏の願いの真っただ中にある私(前期) 

 「仏さまの願い」と「私の願い」、何が違うでしょうか。

 仏さまは、どのような命であっても、必ず往生させると願い・お心を全て、「南無阿弥陀仏」に込められました。

 どのような私・あなたであっても、どのような命であっても、必ず往生成仏させると願い、誓われたのが阿弥陀如来という南無阿弥陀仏の仏さまです。

 どのような私・あなたであっても と申しましたが、私の願いはどうでしょうか?

 自分の望みや欲望を、誰かに・何かに・他人任せをしている願いばかりではありませんか?

 どうか仏さまお願いします!

 どうか私の願いを聞いてください!

 どうか私の望みを叶えてください!

 

 では、その願いや望みが叶わなかったらどうしますか?

 他の人、場所へ行ってお願いごとをしますか?

 

 昨年、ディズニー映画の「アナと雪の女王」が記録的な大ヒットとなったことが記憶に新しいことと思います。

 日本では主題歌を有名な女優さんがカバーし、日本語で歌われた歌も大ヒットしました。

 

 「ありのままの 姿みせるのよ
  ありのままの自分になるの
  なにも怖くない 風よふけ
  少しもさむくないわ」
 

 そういう私であれば素晴らしいことかもしれませんが、実際はいかがでしょうか。

 幼少期は別にして、私たちは大人になれば、成長すればするほどに自分の心を悟られないように、仮面をかぶり生活をしてはいないでしょうか。

 ありのままの自分を見せてしまうことを恐れ、本当の自分・心を隠し、その内に本当の自分・心が分からなくなっている。

 世間・周りの風(声)が吹けば、より一層本当の自分・心を隠してしまう。

 ともすると、家族や兄弟にさえも本当の姿を隠している・・・

 そんな私たちだからこそ、どこかに本当の自分を出せる場所を求め、本当の心の叫びを聞いてくれる誰かを求めているのかもしれません。

 南無阿弥陀仏の仏さまは、この私の命に寄り添い続け、あなたを決して手放すことなく、間違いなくお浄土への人生を歩んでほしいと願われ、あなたも仏さまとなっていく命であるのだとお伝えくださいます。

 何度も申しますように、どんな私・あなたであってもです。

 いいことばかり、自分の望みがばかり叶っていくような人生はありえません。

 自分ではどうしようもできない深い悲しみにであうこともあるでしょう。

 どうしようもできないくらい辛いであいもあるでしょう。

 その出来事一つ一つが、私という人生であり、姿となっていきます。

 その出遇い一つ一つが、今の私へと繋がってきます。

 私の都合一つで、私が願い望まなければ、振り向いてくれないような仏さまではありません。

 私が望むよりも、願うよりも前に、ただあなたを救いたい。

 必ず仏とならせると呼びつづけてくださる仏さまが南無阿弥陀仏です。

 「助けてください」とお念仏をすることが、南無阿弥陀仏のお念仏ではありません。

 
 「必ず助ける。
  あなたをお浄土へと生まれさせる。
  仏とならせる。」
 

 のお喚び声を聴かせていただくとき、「必ず助かる」のだと感謝を申しあげるお念仏が南無阿弥陀仏です。

 今、まさに「み仏の願いの真っただ中にある私」に気付かせていただくことです。