以前、精神医療の研修会に参加した時のことです。
講師はお医者さんだったのですが、以前京都を訪問した時に、あるお寺の前に掲げてあった標語の前で、立ち止まり「うーん」と考え込んだと言われ、その言葉を紹介されました。
それは、「いのちが、あなたを生きている」という標語でした。
お医者さんは続けられました。
「『あなたがいのちを生きている』と言われればわかります。でも『いのちがあなたを生きている』と言われるのですから、私はその看板の前で考え込んでしまったのです。」と。
そして続けられました。
「考えていて、ふと思い出すことがありました。
それは以前お寺で『生かされている』ということを聞いたことです。
生きているのではなく、生かされているんだと教えてもらったのです。
私は、私が生きているではなく、私は生かされているという言葉を頭の中で繰り返しながら、その標語を何度も読み返しました。
そうしたらなんだかうなづけてきたんです・・・
途中ですが、この話を聞いて私は後日、寺の子どもたち(小学校1年生から6年生)の集まりの場で、その標語を紹介してみました。
案の定子どもたちの反応は「はあ?」でした。
そこで、このことを子どもたちと一緒に考えてみることにしました。
私がいのちを生きているという時と、いのちが私を生きているという時ではどう違うのか。
私たちは普段、「私のいのち」という言い方をしますが、それでは私たちは自分で自分をつくって生まれてきましたでしょうか。
また、私のいのちと言いますが、私だけで今日まで生きてこれたでしょうか。
どちらも「いいえ」ですよね。
まず私たちは父と母がいて生まれてきました。
今日では「子どもをつくる」と言う表現が当たり前になっていますが、かつては「子どもを授かる」と言っていました。
はるかな昔から受け継がれてきたいのちの流れ受け継いで、今ここに生まれてきたのが私です。
いのちは作るものではなく、授かるものといのちに対して敬虔な思いを持っていたのでしょう。
また、子どもたちと一緒に掛け算をしてみました。
2×2=4でおじいちゃんおばあちゃん、4×2=8でひいおじいちゃんひいおばあちゃんたち・・・10代さかのぼって1024人の親がいて、20代なら何人と言うことでずっとこの数は大きくなっていきます。
30代ともなると10億人を超えるようです。
それくらいたくさんのいのちを受け継いで、今ここにいる私なのですね。
また、私が今日まで生きてくるために、どれほどたくさんの命をいただいてきたことでしょうか。
こんな小さな体なのに、この体が今日まで生きてくるために、数えつくせないほどの魚たちや牛や豚、野菜たちや米の命をいただいてきたことでしょうか。
こうやって考えてみると、「私のいのち」と言っていますが、綿々と受け継がれ、そして多くの命に支えられているいのちを「私が今、私として」生かさせてもらっているのではないかと思えます。
子どもたちも、特に高学年の子どもたちは「そうだよね〜」と納得してくれたみたいでした。
私も子どもたち一緒に考えながら、そんな大きないのちなのに、「自分のもの」と思い込んで、執着してしまっている私がいるのではないかと反省しました。
再びお医者さんの話に戻ります。
・・・ひとつ納得したことがあるんです。
それは決してこの標語の持つ深い心までわかったということではないと思いますが、この言葉は私に、『一日一日、いのちを生かさせてもらっているんだよ。だから思い上がるなよ、感謝をわすれるなよ』、と教えてくれているんだなあと。
当たり前に繰り返していた毎日の生活が、一日一日いのちを恵まれて生きているんですよね。
私それからたまに、患者さんにこの標語を紹介するんです。
みんな最初は「??」って顔されてますけどね。」
そう語るお医者さんの顔は、ちょっとうれしそうでした。