「あっ……」
すぐ彼女の胸には、良人が帰ってきたのではないかという狂喜に似たものが走った。
しかし、しばらく耳をすましていると、戸をたたく者のことばは、良人の声とは似もつかぬものであった。
それは、なにかに後ろから追われているようなあわただしさで――
「房(ぼう)のお方!房のお方!わたくしは吉水の者です、上人のお弟子の端につらなる実性(じっしょう)と申す者です。
はやくここをお開けください、お救いください。わたくしは今、殺されかかっております」
ことばに連れて、戸を打つ音も激しくなった。
性善坊か、覚明が、すぐ起きて行って、そこを開けてやったらしい。
がたがたと、なにか表のほうに物音がつづいて、急に草庵のうちに一度消された灯(あか)りがまた点(とも)っていた。
「裏方さま」
性善坊の声である。
玉日は、声のするほうへ、眼をみはって、
「はい」といった。
「まだ御寝(ぎょし)なさいませぬか」
「ええ、起きておりました」
「おそれ入りますが、私と覚明とでは、計らいかねることが起りましたので、ちょっとお立ち出でを願われますまいか」
「なにが起りましたか」
玉日が、持仏堂を立って行った縁には、性善坊が、紙(し)燭(そく)を持って、かがまっているのである。
「今――なにやら表のほうで、物音がしましたが?」
「されば、困った者が、救うてくれといって、血みどろになった、転げこんできたのでございます」
「えっ、血みどろの人が」
「おそらく、裏方さまには、ご承知もない者でございましょうが、吉水の端におる者で、実性と申しますが……」
「それがどうしまたか」
「叡山へ、隠密に行ったものでござります、物ずきにも」
「なにをさぐりに」
「近ごろ、南都、高(たか)雄(お)、そのほか叡山なども、主(しゅ)となって、吉水を敵視し、上人以下念仏門の人々を、どうかして、堕(おと)し入(い)れてやろうという企(くわだ)てがあることは、専ら世上の風説にもあるところでござります。――それを案じて、吉水の学僧たちの若い人たちが実性に命じて、叡山の様子を密偵(みってい)しにやったとみえまする」
「ま……」
玉日は、動(どう)悸(き)をおぼえたように、そっと胸を抱えた。
「で――実性は忠実に、幾日かを、叡山にかくれておるうち、ちょうど今宵、大講堂の山門の僉(せん)議(ぎ)がひらかれたので、山法師の群れにまぎれ込み、その評定(ひょうじょう)の様子を見聞きしていたところ、誰からともなく、あらは吉水の人間だと看破されたために、気のあらい法師たちに取り囲まれ、半死半生の目に遭って、足腰も立たないほどにされた身を、からくも、ここまで逃げのびてきたのだと申すのです。――すぐ吉水へ帰るにも、今申したとおり、ひどい怪我(けが)をしておるので、歩めもせず、上人のお目にふれれば、必ずお叱りをうけるにちがいなしというて、その辺りにまごついているうちに、また山法師の目にかかったら、今度は生命も危ないゆえ、体の癒(い)えるまで、どうかこの草庵の物置のうちでもよいから匿ってくれい――と、かようにいうのでございまするが」
草庵には今、師の善(ぜん)信(しん)が留守ではあるし、そういう複雑な事情の者を入れることは、自分たちだけの考えではできないので、どうしたものかと、性善坊は裏方へ計るのであった。
けれど、玉日にも、
「さあ……」
と考えたきり、にわかに、その処置をこうせいといいつけることも迷わせられた。
*「裏方(うらかた)」=貴人の妻の敬称。奥方。とくに、東西本願寺法(ほっ)主(す)の妻。