信か。
行か。
二つの座のどっちを選ぶか。
(――試されるのだ)
そう思うと数百名の門徒は、よけいに迷っているふうであった。
唾(つば)をのんで、人の気(け)色(しき)にばかり敏覚である。
しいんとして、
(吾は――)と進んで、自分の態度を、はっきり示すほどの者がない。
坂東武者上がりの熊谷連生房は、何のためらいもなく、信の座へ着いたが、人々は、
(あれは神経のあらい人(じん)だ。先に釈の信空と、聖覚法印が信の座へ着いたので、それで、自分も追従(ついしょう)したに過ぎない)
こう見ているのであろう、むしろ彼の態度を、軽蔑(けいべつ)するように、じろじろ眺めて、そして自分たちの態度は、なお決しかねているのだった。
執筆役の善信は、机のうえに紙をのべ、筆を握って、
(これだけの門徒のうち、どれほどの数の者が、真の信仰をもっているか)
――を、じっと、恐(こわ)いような気持と、真(しん)摯(し)な興味をもって、眸(ひとみ)をすまして、その実証が数に出るのをまっていた。
――だが、誰も咳声(しわぶき)もしなかった。
無音から無音へ、ときが過ぎてゆく。
「?……」寂(じゃく)としたきりである。
――と、善信の手にある筆が、さらさらと紙の上に微かに走った。
信の座
彼は、自分の名を、その下へ署名したのである。
すると、やや間をおいて、
「わしも、信不退の座につらなり申そう。善信、法然房の名を信の座に書かれい」
上人の声であった。
数百名の門徒たちは、はっと思ったように顔いろを革(あらた)めた。
しかしもう遅い気がして、
「わしも、そう思ったのじゃが……」
「いや、自分も、心では」
などどにわかに騒めき出す。
信不退か、行不退か、の試判はこれで明瞭になった。
信の座についた者は、結局、
法印大(だい)和(か)尚(しょう)位(い)聖覚
釈の信空法蓮
熊谷蓮生房
それに――
善信(親鸞)
法然
と、こう五名だけしかなかったのだ。
群居する数百名の門徒のうちで、わずかこれだけの人しか真に信仰をつかんでいた人はなかったことが明らかにされたのである。
後は、おそらく、念仏はとなえても、他力の門に籍はおいても、どこかに小さい自力がこびりついていた人々だった。
旧教の殻(から)が脱けきれないのか、研鑽(けんさん)が浅いのか、とにかく、肚の底まで、念仏そのものに、澄明(ちょうめい)になりきれない者たちだった。
善信は、心のうちで、
「これでも、今の時代は宗教が旺(さかん)だといえるだろうか。旧教の仏徒から、嫉(しっ)視(し)を受けるほど、勃興していると見られている念仏門が――」
と、嘆息していた。
だが、法然は、そうもあろう)当然なことでもあるように、騒めいている門徒たちの上を、嘆きもせず、欣びもせず、いつものような眼でながめていた。