「おういっ」
岸々(がんがん)と肩をいからしている声だった。
すると、木魂(こだま)のように、
「――おういっ」
と、どこかで答える。
ここは板敷山の胸突坂(むなつき)である。
その坂道から、岩の上に向って小手をかざしている男があった。
柿いろの笹袿(ささがけ)に、黒い脛巾(はばき)を穿いて、頭には兜巾(ときん)を当て、足には八ツ目の草鞋をきびしく固めている。
いうまでもなく優婆塞の一人である、同じ姿の山伏が、そこから切ッ立てに聳(そび)えている岩の上にも一人突ッ立っていた。
それは、笈(おい)を負い、手に半弓を掻い挟んで、じっと、麓の道をさっきから見るすましているのだった。
「小川坊っ、まだ見えないか」
下の者がいうと、
「まだ!」
と、上の山伏は頭(こうべ)を振る。
しばらくしてまた、
「おウウい」
「なんじゃ」
「甲賀坊は、どうしたか」
「あれか、甲賀坊は、万一の場合にと、筑波の野武士を狩り集めに行った。そう、人数がいるまいと思うが、水も洩らさぬ手配はしておいたほうがいい。……やがてもうその甲賀坊も戻ってこようが」
「そうか、だはそこの見張りは、しかと頼むぞ」
「峠の者こそ、抜かるなといってくれ」
乾からびた笑い声をながして、下の者は、すたすたと胸突坂を登って行った。
すると、不意に、
「常陸坊」
と、高き松の樹の上から誰かが呼びとめる。
振り仰ぐと、その樹の上にも、一人の山伏が蝉のように止まって物見をしていた。
「オオ、なんだ」
「まだ来ぬか――親鸞は」
「物見の役が、人にものを訊くのはおかしい。そこから、渓川道(たにがわみち)はよく見えるはずだが」
「あまりいつまでも見えないので、もしやほかの裏道へでもかかりはせぬかと気をもんでいるのだ」
「なに、峠の上で、貝が鳴らぬうちは、懸念はない」
常陸坊はいいすてて、なおも先へ足を早めた。
と――峠の絶顛(ぜってん)に、四方へ竹を立て、注連縄(しめなわ)を結い、白木の壇を供えた祈祷場(いのりば)が見えた。
先ごろから親鸞調伏の護摩を焚いて、一七日のあいだ、必死の行をしていた那珂の優婆塞院の総司――播磨公弁円は、銀づくりの戒刀を横たえて、そこの筵に坐っていた。
京都の聖護院から国守の佐竹家に招請されて下ってきたという豊前の僧都というのは、この弁円であった。
彼のまわりには、同じ装いの山伏が、ものものしく居ながれていた。
ざっとそこだけでも、十二、三名はいる。
その他、あちらこちらに潜んでいる者をあわせたら、どれほどの人数が、この板敷山の樹や岩かげに息をひそめているものか分からない。
「オオ常陸坊か。――途中の物見や合図は、手ぬかりはあるまいな」
「もう、親鸞の師弟どもが、見えてもよい時刻ですが」
「焦心(あせ)るな、今日あいつが柿岡へ出向くことはたしかなのだ。……七日の祈祷は顕然と効(かい)があらわれたものといえる、前祝いに、一杯飲め」