仏教が大切にしていることの一つに、「気づき」ということがあると言えます。
今まで意識して感じたことがなかった、あるいは、それが当たり前だと思っていたこと、日常生活の中でもいろいろと思い返してみると、「あぁそうだったのか」と改めて気づくこともたくさんあります。
最も身近なところで言うとやはり食事でしょうか。
目の前に出された食事は言わば完成されて出てきたものです。
しかし更に思いを寄せると、そこには必ず「命」の存在が見えてきます。
お肉、お魚、お野菜。
間違いなく生きていた多くの命がそこにはあります。
たった一つの私の命を生かすために、今までいったいどれだけの命が奪われてきたのかが知らされます。
それを「当たり前」と思うか、「申し訳ない」と思うか、自ずと見え方が変わってきますよね。
食前のことば
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、
このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。」
食後のことば
「尊いおめぐみをおいしくいただき、
ますます御恩報謝につとめます。
おかげで、ごちそうさまでした。」
浄土真宗本願寺派の、食前・食後のことばです。
どちらにも「ご恩」という言葉が出てきます。
恩という字の成り立ちは、原因の「因」という字の下に「心」がついてできています。
つまりは、「因を知る心」、今ここに命をいただいて生きる自分の全てを正しく見つめ、誕生から成長、食事も日々の出来事も含めどのようなお陰があってここに今自分がいるかを深く知るということです。
以前、ある方と焼き肉をご一緒したときのこと、その方が手際よくお肉を焼いて、ちょうど美味しいところを見計らってみんなのお皿にお肉を取りわけてくださいました。
話を伺うとその方は食肉センターでお仕事をされていました。
牛や豚が命を奪われる場面を毎日毎日、何千、何万と見てきたそうです。
処置台に乗せられた牛たちの壮絶な最後を知るからこそ、「一片のお肉も無駄にできない、絶対に焦がしてはならない」のだそうです。
それ以来、私の食事に対する見方が変わりました。
丁寧に食べる、残さず食べる、儀礼的な食前・食後のことばにならないなど、意識して食事をいただくようになりました。
「お陰さま」
「もったいない」
「有難う」
目には見えなくてもその背景に心を寄せ、改めて知らされる世界によって様々なことに気づき、多くのご恩に報いる生き方こそ御恩報謝の歩みであります。