三十五回
真宗禁制と本願寺(その四)
④無崖の殉教と本願寺
前回につづき無崖殉教一件をみて行きます。
本願寺はこの無崖殉教事件を隠密裏に処理しようとしました。
本願寺は室町時代中期の本願寺八代蓮如宗主の時代より、王法為本(時の政治権力や道徳には絶対的に無条件にしたがうこと)を基本路線としてきました。
そのような本願寺が薩摩藩真宗禁制といった法律を破り、鹿児島に密かに僧侶を派遣していたことが公になっては色々面倒なことになるからでした。
また鹿児島藩においても安芸国の僧侶を死に追いやったことで、安芸国と薩摩国とのあいだで亀裂が起こることも予想され、煩雑な問題を引き起こすことは避けたい事態でした。
そこで本願寺は事件の一ヶ月後、肥後国山鹿郡下永野村名声寺神竜に事件の処理を命じました。
神竜は九州一円を統轄していた豊後照蓮寺(日田市河原町)と相談して、無崖は安芸国とも、本願寺とも関係のない無宿人(住所不詳者)として処理することにしました。
そして神竜は安芸国に赴き真徳寺に次のような誓約書を提出させました。
御請一札
拙寺二男の無崖は日向本庄宗久寺で自害いたしました。
この一件について、御殿もご苦慮いただいている様子を承り恐縮でございます。
護法のために一命を捨てることは僧侶の本懐でございます。
この上はご本山のお名前が表に出ないことを念ずるばかりです。
もし誰かが安芸国を通して尋ねても、無崖といった人物は当寺とは関係のない人物です。
と答える覚悟です。
この段よろしく言上お願いいたします。
こうしてこの一件は無崖を無宿人とすることによって決着がつけられたのでした。
しかし、無崖の遺族としてはいかにも不憫におもわれました。
そこで真徳寺の老僧と兄弟は、―仏法のために一命を落としたことは坊主の本懐でございます。
この上はご本山のお名前が表に出ない事が最も大切をことです。
そこで『御請一札』を提出しました。
しかし、この事件が世間に明らかになった時、無崖が私利私欲で薩摩に潜入して、命を捨てたと言われるのは必定です。
そうでありますので、人に言い触らすことではありませが、ご本山への忠義のために命を捨てたと言う証拠を頂きたく存じます。
そうすれば子孫への手鑑にもなりますので、帰京の上、重役様へ忠死の証書を下付して頂きますように願い出て下さい。
―と、訴えでています。
こうして無崖は無宿人として処理されましたが、それは王報為本を基本方針とした近世本願寺教団らしい決着であり、本願寺教団の矛盾がもっとも顕著にあらわれた事件でした。