『三国志』には、よく知られている有名な故事がたくさんありますが、その中の一つに「泣いて馬謖(ばしょく)を切る」という言葉があります。切られたのは蜀の武将・馬謖、その馬謖を泣いて切ったのは蜀の丞相・諸葛亮孔明です。
馬謖は五人兄弟の五男。馬氏の五人はすべて字(あざな)に「常」の字がついていたので、「馬氏の五常」と呼ばれていました。いずれも秀才でしたが、中でも特に優秀であった四男の馬良は、眉に白毛がまじっていたため、周囲の人々から「馬氏の五常、白眉最もよし」と言われ、この故事から優れた人物を「白眉」と呼ぶようになりました。
馬良、馬謖は共に蜀の初代皇帝・劉備に仕えました。兄の馬良は諸葛亮と親しく、諸葛亮に宛てた手紙の中で亮のことを「尊兄」と呼んでいることから、『三国志』に注を施した裴松之(はいしょうし)は、「馬良は諸葛亮と義兄弟の契りを結んで兄事していたか、遠い親戚関係にあったのではないか」と推測しています。馬良は、劉備・諸葛亮の両名から信頼され重要な役割を担っていましたが、劉備が関羽の復讐のため呉に向けた東征に従軍し、迎え撃った呉の陸遜に大敗した夷陵の戦いで戦死しました。
その間、馬謖は県令や太守を歴任し、その才能を遺憾なく発揮していました。馬謖は「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と言われ、あふれるような才能の持ち主でした。特に、戦術や戦略を論ずることにかけては、一流という評価の高い人物でした。諸葛亮はその才能を愛し、馬謖を馬良の後継者としてのみならず、自らの後継者として育てようと高い期待をかけていました。ところが、そのことを知っていた劉備は、臨終に際し、諸葛亮にあえて「馬謖は口先ばかりの男で、大切なことを任せる訳にはいかない。くれぐれも注意してほしい」と、遺言しました。
けれども、蜀は魏や呉に比べて人材の少ないことを痛感していた諸葛亮は、劉備の言に従わず馬謖をあえて参軍(参謀)に取り立てたばかりでなく、折りにふれては呼び出して意見に耳を傾け、いつも昼から話し込んでは夜に至るほどだったといいます。
諸葛亮が馬謖をさらに重用するようになったのは、南中諸郡の猛獲たちの反乱を平定した際、出陣にあたり諸葛亮から意見を求められた馬謖が、優れた献策をしたことによります。この時、馬謖は「そもそも用兵の道は、心を攻めるを上策とし、城を攻めるを下策とします。丞相にはなにとぞ、彼らを心服させられますように」と述べました。諸葛亮は、この策に基づいて猛獲たちを心服させることに意を注ぎ、その結果南方諸郡は、諸葛亮が死ぬまで謀叛を起こすことはありませんでした。このようなこともあり、諸葛亮はますます馬謖を重用するようになりました。
諸葛亮が、第一次の魏討伐作戦を展開して、天水郡の祁山(きざん)に出撃したとき、馬謖を先鋒に抜擢して街亭に派遣しました。この街亭は戦略上の要地で、今回の作戦では、街亭を確保して道筋をおさえ、進行してくる魏の軍勢をくい止めることがその任務の中心事項でした。
馬謖は街亭に着くと、諸葛亮の「高地に陣を敷いてはならない」という指示に反して山上に陣を取ろうしました。そこで、副将の王平が「もし麓を包囲されたらどうするのか」と諫言すると、兵法書の『孫子』に「山中を行軍するときは必ず谷川に沿って進み、宿営するときは必ず視野の開けた高所に宿営し、敵が高所を占拠しているときは攻め登ってはならない」「険阻な地形の戦場では、味方が先にそこに行き着いたときは、必ず高く展望の開けた場所を確保して敵を待ち受け、もし敵が先にそこを占拠したときは、近付くことなく撤退し攻めかかってはらない」とあることを根拠に、高所に陣を構えることが有利だとして、川沿いの平地を棄てて山上に陣を取りました。
後から到来した魏の将軍・張郃(ちょうこう)は、馬謖が山上に陣取っているのを見ると、ためらわずに麓を包囲し、蜀軍の水の手を絶ってしまいました。水の手を絶たれた蜀軍は兵糧を作ることができなくなり、たちまち苦境に陥りました。蜀軍からは脱走兵が続出し、切羽詰まって攻め下ったものの待ち受けた魏軍に大敗してしまいました。その結果、それまで順調に進んでいた魏討伐作戦は破綻をきたし、蜀軍は全面撤退を余儀なくされました。なお、この敗戦により蜀軍は前線基地を失い、そのため都合五回に及んだ魏討伐作戦を最後まで有利に展開することはできませんでした。
本拠地の漢中に引き揚げると、諸葛亮は軍律違反を犯した馬謖の罪を問い処刑すると共に、自らに対しても丞相から右将軍への降格処分を下しました。
諸葛亮の出陣中、蜀の都、成都にあって政務を取り仕切っていた蒋琬(しょうえん)が漢中にきて諸葛亮に会い、「天下の平定がまだ終わっていないのに、知謀の士を殺したのは残念なことでしたね」と言いました。これに対して、諸葛亮は「昔、孫子が天下を制圧して勝利を得ることができたのは、法の執行が明確だったからだ。天下が魏・呉・蜀に分裂し、戦いが始まろうとしている今、もし法律を無視するようなことがあれば、逆賊(魏)を討つことなどできはしない」と答え、涙を流したと言われます。
ここから「泣いて馬謖を切る」という故事が生まれたのですが、諸葛亮が涙したのには二つの理由があったからだと推測されています。一つは、その才能を愛し自らの後継者として期待していた馬謖を、法に照らすと処刑せざるを得ず、その死を深く悼む思いからの涙とするもの。今一つは、劉備から特に注意されていたにも関わらず、馬謖の才能を過信して大敗を招いた自身の不明に対する悔悟の思いからの涙とするもの。
この「泣いて馬謖を切る」という言葉は、現代でも「私情を棄てて規律を通す」場合に用いられています。自分が信頼を寄せ、しかも後を託す人材として嘱望していた人物が、いかに有能で将来有望であったとしても、法や規律を破った場合どのように対処すべきか。その際、決断の根拠となるのがこの言葉で、「私情を捨てて大義を守るべきこと」の大切さを私たちに語りかけています。確かに、私情としては何とか容認してやりたくても、その相手が法や規律を犯していると、どうにもならなかったりすることがあります。
一般にこの言葉は、馬謖を切った諸葛亮の立場から語られます。「泣いて馬謖を切る」というのですから、それは当然のことだといえます。そのため、切られた馬謖の側に立って思いを巡らすということは、ほとんどないようです。このとき馬謖は「丞相は、私を我が子のように目をかけてくださり、私も親同然にお慕いしてまいりました。なにとぞ舜(古代の聖王)が黄河の治水に失敗した鯀(こん)を処刑しながら、その子の禹(う/夏王朝の始祖)を起用された故事を想起されて、平生のご厚誼を今日そこなわれることがなければ、私は思い残すことなく死ぬことができます」と書き送りました。諸葛亮は、馬謖の葬儀に参列すると共に、遺児を従来通りの待遇にしたといいます。
できれば、泣いて馬謖を切った諸葛亮の思いを味わうことなどなければ良いのですが、もし自分の立場上そういう場面に遭遇したとしたら…。現代では、実際にいのちを奪うことなどあり得ませんから、法や規律に照らしてその罪を問い、解雇したり縁を切ったりするといったところでしょうか。 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますし、それまでの厚誼をそこなうことなく、馬謖の声に耳を傾けた諸葛亮の故事にならうようにしたいものです。