またいま一つ、念仏の声が消えつつある理由には、さらに伝統的な教学のあり方にも問題があるように思われます。
伝統教学とは「本願寺中興の祖」と讃えられる蓮如上人の教えの流れを汲むことになるのですが、ここでは蓮如上人によって確立された「信心正因・称名報恩」の義が「公式」としてことのほか重要視されています。
確かに、蓮如上人は一般の人々に難解であった親鸞聖人の教義を「百を十に、十を一に」と伝えられるように、平易に語ることに重きを置かれ、そのみ教えを「信心正因・称名報恩」という言葉で簡潔に説いて下さったのですが、蓮如上人が直接語りかけられた室町時代の人々はともかく、世襲という形で浄土真宗の教えに接している現代の人々には、実はこのことがまことに理解し難い事柄なのです。
たとえば「称名報恩」ということですが、これは当然のことながら「恩」というものを知らなければ、そこに「報いる」という行為は成り立ちません。
子どもが親の恩を知ることが出来るのは、自分が親になって子どもを育てる苦労をした時だと言われます。
したがって、それ以前に言葉だけで「親の恩を理解せよ」と言われても、経験のないことを実感するのは至難の技だといえます。
そうすると「報恩の念仏を称えよ」と言われるのですが、聴聞の場で繰り返し繰り返し「阿弥陀仏のご恩を受けている」と聞かされても、世襲という形で浄土真宗を受け継ぎ、自ら主体的な形で教えの選び取りをしている訳ではない現代の人々にとって、それを実感することは極めて困難なことなのです。
また、ただ単に「念仏を称え続けていれば、誰もがやがて必ず阿弥陀仏のご恩を実感出来るようになる」という訳でもありません。
したがって「報恩の念仏を称えよ」と言われると、恩を知り得ない者からはむしろ念仏の声が消えてしまうことになるのだと言えます。