「親鸞聖人における信の構造」2月(中期)

親鸞聖人は浄土教に三種の往生の求め方があると語っておられます。

一は『観無量寿経』、

二は『阿弥陀経』、

三は『無量寿経』の教えに添った往生観です。

三者はいずれも阿弥陀仏の浄土への往生を願っていますから、その意味では三者の心は共通しています。

しかも阿弥陀仏の浄土への往生を願うということは、阿弥陀仏に救われたいと願い、その本願力を増上縁としていることにおいても、三者の心は一致しています。

さらにその本願力が、第十八願に誓われている。

阿弥陀仏の本願力であることもまた同一なのです。

では、阿弥陀仏は第十八願に何を誓われているのでしょうか。

第十八願には「至心信楽欲生我国乃至十念」と誓われていますが、善導大師はこの願の心を、十声「南無阿弥陀仏」と称えることであると解釈されました。

つまり、阿弥陀仏は本願に

「念仏せよ、その一切の人々を救う」

と誓われているので、ただ称名念仏を相続することが往生の行であると説かれたのです。

ただし、善導大師はこの本願の心を『観無量寿経』の教えと重ねて衆生に説かれました。

本願には一切の衆生を全て平等に救うために「念仏せよ、救う」と誓われています。

では、衆生は本願によって救われるためには、どのように念仏を行ずれば良いのでしょうか。

救われるためには、阿弥陀仏が衆生を救いたいと願っている心と、衆生がまさに阿弥陀仏に救われたいと願っている心とが完全に一致しなければなりません。

阿弥陀仏の願いに応じて、衆生もまた一心に往生を願い念仏を相続しなければならないのです。

この場合、この世には様々な衆生がいます。

これら『観無量寿経』では、心を統一し清浄にして、阿弥陀仏を見ることの出来る者と、心の統一が不可能な者とに分けます。

後者が凡夫ということになりますが、この凡夫をさらに能力に従って、上の上から下の下まで九段階に分け、それぞれの能力に応じた念仏の称え方を『観無量寿経』は説いています。

この能力に応じた念仏行の説示は、教えとしてはまことに正しいといえます。

阿弥陀仏は本願に

「念仏せよ、あなたを救う」

と誓われていますが、もし衆生がその教えを信じないで、ただ南無阿弥陀仏と唱えただけであれば、そのような念仏はあたかもカエルの声と同じであって、その行為には宗教的な意味は何もありません。

衆生が本願に応じるためには、各々の心にかなった念仏がやはり求められなくてはならないのです。