「親鸞聖人の往生浄土思想」(12月中期)

親鸞聖人は、比叡山で源信流の天台浄土教を行じておられました。

それは、一心に浄土の教えを信じ、ただひたすら懸命に念仏を称えて心を清浄にし、真実の心で往生を願う行道で、その念仏行を一心に行じておられたのです。

では、その結果はどうであったのでしょうか。

行道は願いの通りには成就せず、むしろその願いとは逆に行が完全に破綻し、苦悩のどん底に陥り、その最も悲惨な状態の中で、親鸞聖人は法然聖人と出遇われたのです。

このとき、法然聖人は親鸞聖人に

「選択本願念仏」

という一つの真実を繰り返し語られました。

法然聖人のこのときの語りかけの言葉を親鸞聖人は『歎異抄』第二条で、

ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし

と語っておられますが、法然聖人は親鸞聖人に対して、

「真実心の成就」

を全く求められず、念仏が本願に順じた行であるから、念仏する衆生を弥陀は必ず摂取したまうのだと、弥陀法の真理を淡々と教えられたのです。

だからこそ、この教えを聞かれて、親鸞聖人の心に

「よき人の仰せを信じる」

という信が成立したのです。

では、この獲信によって、親鸞聖人に何が明らかになったのでしょうか。

阿弥陀仏が衆生に念仏を称えさせて、その衆生を摂取したまうという法の真理が、いま法然聖人の説法という行為によって、親鸞聖人の心に開かれたのです。

念仏者はすでに弥陀の摂取の中にあり、心は弥陀の大悲で満ち満ちています。

故に、この真理を獲信するとき、往生は決定し正定聚に住すという証果が得られるのです。

この法の道理によって親鸞聖人は

「浄土往生の行」

を、阿弥陀仏の大悲から出る名号と、法然聖人のその念仏を説法する

「行為」

の中に見られ、また浄土を光明無量・寿命無量であるとされ、功徳の相が

「南無阿弥陀仏」

となって、浄土から親鸞聖人の心に来っていると捉えられたのです。

このような観点から、以下、親鸞聖人の往生浄土の問題を尋ねることにして参ります。