浄土へ帰る

お葬式にご縁をいただきますと、司会進行の方がこんなセリフを言われることがあります。

「〇〇さんはお浄土へかえっていかれました」。

このようなセリフを耳にします。

私はこのお浄土へ「帰る」という表現が温かいなと思うのです。

もう前の事ですが、長期休暇で東京から実家へ帰省していた私が、休みを終えて東京へ戻る時、母に「東京に帰るね」といったら、母は「東京に行くでしょ!あなたの帰る場所は鹿児島よ!」と言われたことを覚えています。

「帰る」その先には私の事を一番に心配してくれる人がいる。

待っている人がいる。

居場所がある。

そんな温かいニュアンスが「帰る」という言葉にはあるように思います。

しかし同時に一つの疑問が浮かんできます。

私はお浄土へ一度も行ったことがないのです。

それなのに「帰る」と言ってもいいのかな。

という疑問です。

この疑問を僧侶であり仲のいい友人に聞いてみることにしました。

私の質問に対して友人は、

『そういえば、うちの奥さんが出産を終えて赤ちゃんと一緒に病院を退院する時、ベッドから赤ちゃんを抱きかかえて、何度も何度も「お家に帰りましょうね、お家に帰りましょうね」と呼びかけていたよ。そして家に着くとおじいちゃん、おばあちゃん親戚一同が飛び出して来て、「お帰りなさい」と、赤ちゃんを温かく迎えてくれたんだよ。赤ちゃんはお家に一度も行ったことがないけれども、お家に帰っていくんだよ』

と、こんなヒントをくれました。

友人のヒントから気付かされました。

赤ちゃんは一人では家に帰る事はできるはずがありません。

お母さんに抱かれながら一緒に病院から家までの道のりを帰っていきます。

病院の曲がり角を右へ曲がり左へ曲がり、階段を下り、玄関をくぐり、タクシーにでも乗るのでしょうか。

赤ちゃんはずっと移動の間、腕の中で泣いているのかもしれません。

右も左もわからず只々泣くばかりの赤ちゃんのように、私たちもこの命がどこへ向かって行っているのか(何のために生きているのか)わるはずもありません。

わからない中を悩み、苦悩し、泣き、笑いしながら精一杯一人一人が今を生きています。

明日何が起こるかわからない日々の中で、誰もが必ず死を迎えて行きます。

不安もあろうと思います。

そんな私たちに阿弥陀様は

「必ずお浄土へ連れて帰るからな。安心しなさい。」

と絶えず絶えず、まさに今も呼び続けていらっしゃいます。

この「浄土へ必ず連れて帰るぞ」というお心が、南無阿弥陀仏なのです。

南無阿弥陀仏のお心で阿弥陀様が抱いてくださり、今まさにお浄土への帰り道を生かされております。

ここは阿弥陀様の腕の中です。

大いに悩み、泣き、笑いしながら、お浄土への帰り道を生きさせていただけること、有難いことです。

勿体ないことです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。