親鸞聖人とその師匠である法然聖人は「善人・悪人」をどのように位置づけておられたのでしょうか。
親鸞聖人は『歎異抄』で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(第三条)」と、悪人こそが往生のめあてであると述べておられます。
それに対して法然聖人はお手紙の中で「悪人なおうまる。いわんや善人をや」と、全く逆のことを述べておられます。
このことから、親鸞聖人は自らを悪人、法然聖人は自らを善人と受け止めておられた理解することができます。
では、法然聖人は何を根拠に自らを善人と位置づけられたのでしょうか。
法然聖人の著された『往生大要集』を読むと、その中で
「われら罪業おもしといえども、いまだ五逆をつくらず。ひろく五逆極重のつみをすてたまはず、いはんや十悪のわれらをや」
と、述べておられます。
このことから、法然聖人における悪人とは「五逆の罪をつくった者」のことだと知ることができます。
いまここでいわれる「五逆」というのは
「一つにはことさらに思いて父を殺す、二つにはことさらに思いて母を殺す、三つにはことさらに思いて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもって仏身より血を出だす」
という五つの罪のことです。
法然聖人は、私たちは十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見)の罪は犯しているが、未だ五逆の罪はつくっていない。
殺生もした、嘘もついた、盗みもした、あるい飲酒戒、邪淫戒を犯したこともある。
けれども、未だ五逆の罪はつくっていない。
だから、救われるのだといわれるです。
そうすると、法然聖人における悪人とは「五逆の罪をつくったもの」、善人とは「五逆の罪の罪をつくっていない者」と理解することができます。
確かに『観無量寿』においては、五逆の罪をつくった者が救われています。
そこで法然聖人は
「われら罪業おもしといえども、いまだ五逆をつくらず。ひろく五逆極重のつみをすてたまはず。いはんや十悪をや」
と、五逆の罪をつくった者でさえ救われているのだから、まして十悪の罪を犯しているだけに過ぎない私たちが救われるのはいうまでもないことだ、と説かれるのです。
これに対して親鸞聖人は
「善人でさえも救われる。まして悪人はなおさら救われる」
と言われます。
ここで親鸞聖人がおさえておられる悪人とは、法然聖人ように五逆の罪をつくった者のことではありません。
では、どのような罪をつくった者かというと、謗法の罪(仏法をそしる罪)を犯した者です。
親鸞聖人は、五逆罪を生み出すもとにあるのは謗法罪にほかならず、まさに謗法罪こそが一切の罪をうみだすもとであると見ておられるのです。
では、謗法罪とは何でしょうか。
『往生論註』の中に「謗法の体これ邪見」ということばがあります。
「邪見」ということが、真実なる仏法を謗(そし)る心、謗法の罪を生み出すのです。
この「邪見」というのは、自分の考えを大事にかかえこんで、人の言葉が耳に入らないあり方のことです。
そのため、私たちは常に自分だけが正しいというあり方に立ってもの見、考え生きていくことになります。
それが、「邪見僑慢悪衆生」(『正信偈』)ということです。
親鸞聖人は、一切の罪業の根底に、邪見ということを見ておられます。
したがって、「不断煩悩得涅槃」(『正信偈』)、煩悩を断ちきらなくても救われるといわれるのですが、しかしそのままという訳ではありません。
そこには、回心ということが必要になります。
この回心とは、ただ自分が悪いことをしたというような、自分のしたことを反省するということではありません。
私のあり方、私が生きていること自体が罪の身であるという事実に頷くということです。
親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と述べておられますが、まさに地獄こそ私のいのちの事実であると受け止めることです。
法然聖人における善人とは、未だ五逆の罪の罪をつくっていない者のことでしたが、親鸞聖人における善人とは、邪見僑慢なるが故に謗法の罪を生み出している人のことだといえます。
また、法然聖人における悪人が五逆の罪をつくった者であるのに対して、親鸞聖人における悪人とは邪見の衆生だという自覚を踏まえて語られていると理解することができます。
このように、師弟関係にあられ、同じ善人・悪人という言葉を用いておられるのですが善人・悪人観の相違が、今日浄土宗・浄土真宗という宗派に分かれている理由の一つかもしれないと思うことです。