「歎異抄に学ぶ人間」−私とは−(上旬)パパさようなら

======ご講師紹介======

山崎龍明さん(武蔵野大学教授)

☆演題「歎異抄に学ぶ人間−私とは−」

ご講師は、武蔵野大学教授の山崎龍明さんです。

昭和18年東京生まれの山崎さんは、龍谷大学文学大学院修了後、龍谷大学講師、本願寺教学本部講師を経て、現在武蔵野大学教授を始め、同大学仏教文化研究所所長、東京仏教学院講師として、教化伝道にご尽力しておられます。

また、世界宗教者平和会議役員並びに平和研究所員、NHK文化センター講師等でご活躍です。

『歎異抄を生きる』等、著書も多数出版しておられます。

==================

先年、私の友人が51歳で亡くなったんです。

彼は結婚してから17年間、子どもに恵まれなかったんですが、47歳のとき待望の赤ちゃんが生まれました。

男の子でした。

でもその4歳の子どもを残して、今年5月17日に彼は亡くなってしまったんです。

火葬場な出棺するときに、最後のお別れですから、お母さんが

「元気な声で『パパさようなら』と言いなさい」

と子どもに声をかけるんです。

私は涙を禁ずることができませんでした。

その彼には82歳になるお母さんがいらっしゃるんです。

このお母さんは40年前、20代の娘さんを自死で亡くされているんです。

そこへもってきて、5月に息子さんを亡くしてしまった。

みなさんの中にもそういう悲しいご経験をされた方がたくさんいらっしゃると思います。

特に今、この難しい社会の状況の中で、自らいのちを絶たれる方が毎年3万人以上もいらっしゃるという報道がなされています。

生きるということは、本当に苦しく辛い、そして悲しいことであります。

そういう中を私たちは生きていかなければならない。

よほどいのちの幹をしっかりしなければ成りません。

『歎異抄』は、そういうことに対する様々な答えが用意されているお書物であると申し上げてもよろしいと思います。

さて『歎異抄』ですが、こんなことが書かれているんです。

一番最初の序文には

「自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれ」

とあります。

自見とは自分の見解のことです。

私たちはみな自我というものを持っています。

早島鏡正という先生が

「我尺」

ということをおっしゃっています。

我尺とは

「私の物差し」

ということです。

そして先生は、我尺に対して

「仏尺」

とおっしゃった。

仏尺とは、仏さまがものをご覧になる

「仏さまの物差し」

です。

私たちは、みんな自我、エゴ、自分の物差しですべてのものを測りますね。

その結果、

「あの人はいい人だ、この人はいい人だ。

あの人はとんでもない人だ」と。

けっこう、それは間違っていることが多いんじゃないでしょうか。

いい人悪い人がいるんじゃない。

いい人だ悪い人だと思っている自分がいるだけなんです。

私たちが

「あの人はいい人ですよ」

というときは、だいたい自分の言うことを聞いてくれる人じゃないですか。

これが我尺なんですよ。

『歎異抄』の世界は、

「自分の物差しを絶対化するのは間違いですよ」

と。

私たちは、どうしても自分の人生経験、あるいは教養だとか知性とか、そういうものを自分の物差しにして、すべてを測っているんですね。

一回その物差しを捨ててみますと、つまらないと言われていた人が素晴らしい人であったり、あの人は間違いないという人がそうでないこともあり得るんですよ。