『にげる私を追いかけてついてはなれぬ御仏(おや)がいる』(後期)

  苦悩、絶望の中だからおかげさまと出会えるどんなに小さくても

  どんなにかくれられてもチラッと足元が見えるだけで

  あなたと出会えます

(鈴木章子『癌告知のあとで』探究社刊)

これは、鈴木章子さんという、北海道の西念寺の坊守さん(お寺の奥さん)が、乳がんの告知を受け、47歳で亡くなるまでの3年間、病床において書かれた手記の中にある

「おかげさま」

という詩です。

私たちは、楽しいことや得した時、自分の都合のいい目に遭うと

「おかげさま」

と喜ぶけれど、苦悩や絶望の淵にあって、本当に

「おかげさま」

なんて言えるのでしょうか、私はそれは強がりではないのかと最初は素直に受け取ることが出来ませんでした。

しかし本を読み進めて行くうちに、章子さんが阿弥陀さまとの出会いのなかで、苦悩、絶望の私が、そのまんま受け取られ、不安のまま安心となる世界があるのかなと思えるようになりました。

親鸞聖人の和讃の中に

     『十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし

     摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる』

とあります。

私のあらゆる苦悩、絶望を見通して(真実の私)、それに気付かぬ私を追いかけ、けっして離れることなく私を救うと、働き続ける親がいるそれは阿弥陀さまという御仏(おや)であると訳せるでしょうか。

今までの自分は、本当の自分の姿に気付かないまま、あれが得,あれが損と目先の出来事に囚われ、全てが当り前と思っていた。

でもある日突然病気という苦悩・絶望の中に突き落とされ、悩み苦しむ中で、阿弥陀さまの

「必ず救う」

という願いに出会われた。

その中で、真実の命(諸行無常:自分の思うようにはならない)の姿に気付かされ、

「そんな苦悩を抱えるお前だからこそ離れないぞ、必ず仏となる

「いのち」

と生まれさせる」

と働き続けていてくれた御仏(おや)がいたと頂かれたのではないでしょうか。

どんな時でも、願われながら輝く命を今生きている。

それが真実の私であり

「おかげさま」

と喜んでおられるのでしょう。

そして気付かぬ私にその事を教えてくれたのが、苦悩、絶望という縁であったと頂かれたと思うのです。

合掌