『心の眼を開けばあたりまえがおどろきになる』(中期)

私たちは、漠然とではあるのですが、

「いつかは死ななければならない」

ということは一応知っています。

けれどもその一方で、自分だけは

「死ぬのは、まだずっと先のことだろう」

と、思っていたりします。

ところが、だんだん年を重ねていくと、ふと

「あと何年生きられるだろうか…」

と、考えることがあります。

思うに、このような考え方は

「引き算の人生」

という言い方ができるのではないでしょうか。

つまり、単に自分が知らないだけのことで、それぞれ人には初めから

「寿命」が定まっているとする考え方です。

そのため、まるでローソクがだんだん小さくなっていって、最後には炎が消えてしまうように、年を重ねるごとに私のいのちのローソクも年々小さくなり、最後にはローソクの炎が消えるように、いのちの炎も消えてしまうというイメージです。

そこで、

「私のいのちローソクは、あとどれくらい(何年)残っているのだろうか」

ということになる訳です。

ところで、あなたは自分の「死因」は何か、ちゃんと自覚していますか。

「まだ生きているのだから、そのようなことは分からない」

と言われるかもしれません。

周知のように仏教は、原因と結果の関係性を説く教えです。

この場合、結果から見るとそこには必ず原因があるとことを明らかにするのがポイントです。

したがって、

「死」

という結果の原因は

「生まれたことにある」

と、説き明かします。

もし「死にたくない」

という人がいたとすると、その人に対しては

「生まれなければ死なないですむのですが…、でも既に生まれた以上、その結果として必ず死ななければなりません」

と説くのが仏教です。

たとえ、病気にならなくても、不慮の事故や災害などを免れたとしても、生まれた以上、その結果として老衰という形で最後は死んでしまいます。

一般に、私たちは病気や事故、災害などを

「死因」と言っていますが、これは

「縁」です。

だから仏教では

「死の縁無量にして…」と言うのです。

死の縁(条件)はそれこそ無数にありますが、死因はあくまでも生まれたことにあります。

時折

「あなたは、今朝目が覚めて嬉しかったですか」

と尋ねると、

「いえ、別に…」とか

「今日は何の日ですか」

「今日何か良いことでもあるのですか」

などと、問い返されたりします。

なぜ、私たちは朝目が覚めた時、特に

「嬉しい」と思わないのでしょうか。

それは、無意識の内に朝目が覚めることを当然のこととしたり、

「当たり前」

と思っていたりするからではないでしょうか。

私たちは

「当たり前」のことは、特に嬉しくはないのです。

「有り難う」という言葉は、文字を見ればすぐ分かるように

「そう有ることが難しい」

つまり、その恩恵を受けるような私ではないにも関わらず、現にいまその恩恵を受けていること、言い換えると当然ではないことが今私の上に起きていることから発せられる、感謝の意を表す言葉です。

聞くところによると、人間は医学的には120歳くらいまで生きられる可能性があるのだそうです。

そういうことを耳にすると、

『電化製品ではないけれど、人間のいのちも120年とは言わないから、せめて「100年保証」とかしてもらえないのだろうか』

と思ったりします。

残りの20年は、その人、個々の頑張り方次第でも良いので…。

私たちのいのちには保証期間がない一方、既に死因はあるのですから、それがいつ私の中で起こったとしても、不思議でも何でもありません。

たとえそれが、本人はもちろんのこと、周囲の人にも

「突然」のように感じられても、原因と結果の関係性においては自然なことなのです。

なぜなら、いったいどこの誰が

「今朝目が覚めること」

を保証してくれているでしょうか。

前夜寝る前に、私だけが

「翌朝目が覚めること」を

「当然」と思っていただけのことです。

そうすると、私たちの人生は

「引き算」なのではなく、

「足し算」なのではないでしょうか。

今朝、目が覚めたということは、決して

「当たり前」のことではなく、むしろ

「死ぬべきものがたまたま生きていた」

というのが、その内実なのだと言えます。

そして、

「賜った一日を積み重ねてきたのが、今日までの私の人生」

ということになるのです。

仏法を聴く中で、心の眼が開くと、それまで

「引き算」だと思っていた人生が

「足し算」の人生へと転じるなど、あたりまえであったことがそうではなかったと頷けたり、気付かなかったこと、見落としていたことに驚かされたりすることが少なからずあります。

まさに、仏法によって心の眼が開かれれば、あたりまえがおどろきになるということを、この言葉は明らかにしているように窺えます。