「生きているうちが華だから、死んだら終わり」
という考えを持っている方が、少なからずいるように思います。
なるほど、普通に考えれば、そりゃそうだ、とうなずけそうです。
しかし、もう少しはっきりした文体で考えると、どうでしょうか。
わたしが生きているうちが華だから、わたしが死んだら終わり。
つまり、自分の人生が華だから他のいのちを踏み台にしても自分の華を求めるべきだ、死んだ後の世界はどうでもいい、です。
自分中心の人が出会うと、争いが起こり踏みつけ合ってしまいます。
結果、華の人生ではなく、地獄を作っていくのです。
死んだ後のことを考える必要がないなら、自分の子や孫に対しても、その他大勢の生き物に対しても、なんら愛情を注ぐ必要はありません。
このような生き方が華でしょうか。
ある先生がおっしゃっていました。
「あなたのお母さんは、どうしてお母さんと呼ばれるのですか」と。
ほとんどの方は、
「私を生んでくれたからです」と答えるでしょう。
しかし、先生は他の答を持っていると言われます。
それは
「自らがお母さんと名乗るから、お母さんと呼ばれる」という答えです。
世の中には色々な家庭があり、自分で生まなくてもお母さんと呼ばれる人は沢山います。
その家庭でも、子どもがお母さんと呼ぶのは、お母さんが小さな時から
「お母さんがご飯を持ってきたよ」
「お母さんがおむつを替えるよ」
と、呼び続けてきたからです。
少し古い曲ですが、
「こんにちは赤ちゃん私がママよ」という歌がありました。
その通りです。
「私がママよ」と呼びかけているのです。
そしてその呼びかけの中には、あなたがどうであろうと私はあなたのお母さんであり続ける、ビリでも失敗しても、落ちこぼれでも、私があなたの母だ、という強い意志が見て取れます。
「ナモアミダブツ」は仏さまのお名前です。
そしてその名前には、お母さんという響きが持っているのと同じような働きがあります。
「私はナモアミダブツだ、あなたを必ず救うナモアミダブツがここにいるぞ」
と聞いてみてはどうでしょうか。
子どもが
「お母さん」と言うまでには、それなりの時間がかかると思いますが、お母さんは何度も何度も
「お母さんだよ」と呼びかけを繰り返し、ようやく私が気づくようなありさまです。
仏さまはずっと
「必ず助ける、ナモアミダブツだよ」と呼びかけ続けておられます。
聞いて、聞いて、聞いて、親の働きに感謝し、親の名前を呼べる人生をありがたく思うことが人生の華なのではないでしょうか