『聞思まことのみ法に自らを問う』(中期)

なぜ、私たちにとって、常日頃から仏さまの教えに耳を傾けることが大切なのでしょうか。

もし、日常生活における幸福の求めだけが人間にとって重要なことだとすると、ことさら仏さまの教えに熱心に耳を傾けなくて良いのかもしれません。

また、日頃から神仏に幸福への祈りを捧げていても、時として不幸な状況に陥ることもあります。

そのため、不慮の事故に遭い悲惨な状態になると、つい

「世の中には神も仏もあるものか」

と叫んでしまう人もいたります。

実はこのような時にこそ、その人にとって必要となるのが、その人を真の意味で救う教えだと言えます。

つまり、自分が思い描いていた幸福の求めが破れた時にこそ、真の意味で宗教が求められることになるのです。

ところで、このような非常の事態に陥った時は、人の心は大きく動揺しています。

したがって、深遠な宗教の哲理をじっくりと聞いたり、深く学んだりすることはできません。

「溺れる者は藁(わら)をも掴む」

という諺がありますが、まさにそのような状況にあるといえます。

そして、このような局面においては、藁を掴んだその時が、まさにその人の溺れている時になります。

一般に、人がどうしようもない悲惨な状態に置かれると、その人を救うという宗教が現れ、その人の心に響くような言葉を語りかけます。

この時その人は、心が動転しているため、その言葉の真偽を聞き分けることは容易ではありません。

そこでその人は、自分の耳にとって最も甘く響く言葉を選ぶことになります。

この場合、もしこの選びがこの人にとって

「藁」であるとすると、その宗教を掴んだが故に、さらなる悲惨な状態に陥ってしまうことになります。

なぜなら、藁は掴んでも浮かばないように、このような教えはその人を正しい方向に導くものではないからです。

けれども、私たちは掴んだという思いがあるため、余計にもがいてしまうことになるのです。

だからこそ私たちは、常日頃から真実の教えに耳を傾ける必要があるのです。

人は、心が平常であって理性が働いている時には、偽りの宗教を見分ける力を持っています。

したがって平生、真の宗教を選び、その教えに耳を傾けることが大切になるのです。

なぜなら心が混乱して動揺した時でも、今まで聞いている宗教が、その人を正しい方向に導くことになるからです。

このことについて、『金光明経』には次のように述べられています。

深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する。

他人の善いことを見るとわがことのように喜んでその人のために功徳を願う心が起きる。

またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに生活することを願うのである。

この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。

だから、すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心をこめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふたたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。

さて、では私たちは真の宗教を、どのようにして選べばよいのでしょうか。

そのためには何よりもまず、自分とはいかなる者であるか、自らの真の姿を知ることが大切なのではないでしょうか。

親鸞聖人は、今日の私たち愚かな凡夫の姿を

「悪人」ととらえられます。

この悪人とは、人間社会の日常生活の中で、法律や倫理的な悪を行う人という意味ではありません。

どのような宗教であっても、人に悪を勧める宗教はありません。

宗教は、必ず私の人生にとっての

「善」を勧めるものであって、善がその人によい結果をもたらすと信じるからこそ、人はその宗教を信じ、その宗教にしたがうことになるのです。

けれども、そうすると、私たちが好み行おうとしているその善が、はたして本当の意味での善であるかどうかということが問題になります。

これは『歎異抄』でも言われていることなのですが、私たちは往々にして、仏の教えを判断の基準に置かず、自分が善だと思うことを善とし、悪のように見えれば悪だと考えてしまう傾向があります。

しかも自分が置かれている状況によって、どのような振る舞いをするかわからないのが私の本質です。

例えば、日頃とても気の優しい人が、条件によっては平気で人を殺すことになるかも知れません。

あるいは、自分では善意でなしたつもりの行為が、時として相手の心を深く傷つけることもあったりします。

そうすると、このような不確かな私の行為が、どうして真の善だといえるでしょうか。

そこで仏教では、このような毒をまじえた善の一切を仏果への行とはみないで、むしろ迷いの因であるとみます。

このことを踏まえて善導大師は、自分自身のことを

いま現にここにいる自分は、罪悪生死の凡夫であって、無限の過去から今日まで、常に、迷いの世界に沈み流転し続けて、まったくこの迷いから出る縁に恵まれなかった。

と述べておられます。

では、なぜ、永遠に迷い続けてきた自分の姿を、善導大師は見ることができたのでしょうか。

それは凡夫として、ここに佇んでいる自分を、知ることができたからにほかなりません。

『金光明経』にも説かれていますが、もし自分が過去において、仏とともにいて、仏の教えにしたがい、仏の教えを行じたならば、また、仏の名を聞き、信じ喜ぶ一念があったならば、仏は善導大師をすでに仏果に導き、ふたたび迷いを重ねることはあり得なかったはずです。

「深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する」

とは、まさに善導大師のように、今の自分を知ることだといえます。

ところが、善導大師は同時に、その自分がいま仏法を聞く縁に恵まれたことを、心から喜ぶことになります。

ことに阿弥陀仏の名号を聞き、この仏の本願が、大悲心をもって、迷える善導大師を摂取しておられることを次のように喜ばれます。

阿弥陀仏の四十八願は、迷える衆生を摂取したもうています。

したがって、衆生には、何の疑いもはからいも必要ではありません。

阿弥陀仏の願力に乗じて、必ず往生すると信じればそれでよいのです。

ここで私たちは、仏とは何かを知ることが求められます。

お釈迦さまは悟りを得られた後、とのようなご一生を過ごされたのでしょうか。

それは

「迷える衆生を救う」

という一筋の道を歩まれたといえます。

悟りの智慧を得られたが故に、迷える衆生を知り、お釈迦さまに救いを求める人びとを悟りに導くために、慈悲の実践を続けられたのです。

だとすれば、最高の仏・無上仏は、一切の衆生を救われるために、衆生の願いに先がけて、すでに衆生の心にきているといえます。

だからこそ、衆生が自らの迷える姿を知り、その姿を慙愧して仏の願力を信じれば、そのとき衆生は救われるのです。

このように

「人生のよりどころを明らかにする確かな言葉をよく聞き考えること」、言い換えると

「まことのみ法に自らを問う」あり方を「聞思」といいます。

親鸞聖人は

「聞思して遅慮することなかれ」と、積極的に聞思することを説いておられます。