『聞思まことのみ法に自らを問う』(前期)

 「聞思莫遅慮」(もんしばくちりょ)

このお言葉は親鸞聖人の代表作である『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』の冒頭、

「総序」の中に出てくる一文です。

教行信証を書くにあたり、親鸞さまご自身の信仰に生きる喜びをまず表現されたものが、この総序とも言えます。

「聞思」とは、聞き、そして考えるということであり、

「遅慮」とは、不信の思いによってためらい、行き詰まっている様子を表します。

つまりは、

「(人生のよりどころを明らかにする確かな言葉を)よく聞き考えて、ためらってはならない」

という意味です。

親鸞さまは法然上人との出遇いから、阿弥陀仏の摂取不捨の誓い(必ずあなたを摂め取って決して見捨てない)に心から信順し、

「念仏せよ、救う」という仏のおいわれにそのまま生き抜かれた方でありました。

それは同時に自分の心や自己の考えというものを徹底して厳しく見つめていく生き方でもありました。

人生のよりどころ、私たちはどのように受けとめているでしょうか。

「仏法を聞くということは、自分の常識を否定できるか」

これは学生時代に聞いた先生の言葉ですが、今でも時々思い返し、意識している言葉です。

自分は正しい、自分こそ間違いないと無批判に自分をよりどころとする生き方は、大変危険であると受けとめています。

私たちの思いや心情は常に変化し、その都度その状況や縁のままに変わっていきますし、何よりも自分の好き嫌いを中心に物事を判断して生きているのが私たちでありましょう。

このことを仏教では

「我執」と呼びます。

つまり自分の経験によって作り上げた自分の感性にだけこだわって、自分が見聞きしていることが全て正しいと思い込んで執着しているのが私であると言えます。

それとは逆に、自己の限られた感性を離れて、真にものを感受することができる境地が開かれることを

「覚り」と呼び、その覚りといわれる感性に映ってくる世界を

「浄土」というのです。

好き嫌いという自分の都合でしかない私を見抜き、その私に向けて阿弥陀仏の教えは

「私を映す鏡」として

「南無阿弥陀仏」の名号となって呼びかけ、響いてきています。

それがお念仏であり、阿弥陀仏とは名を聞いてお遇いする仏さまであると親鸞さまは言われるのです。

当てにならない私自身をよりどころとせず、仏のおいわれに自らを問い、日常の

「当たり前」に、

「有ること難し」

と見ていく生き方を心がけたいものです。