真宗講座 親鸞聖人の「往相と還相」往相の行道(2月後期)

では釈尊滅後、この浄土真実の行は、この世にどのように展開していくのでしょうか。

歴史的事実において、この法は、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・法然聖人、そして親鸞聖人へと受け継がれています。

「行巻」ではこの伝承を、また「浄土真実の行」の行態として明かされます。

まず、釈尊から龍樹菩薩へ、阿弥陀仏の三心と名号が伝達されます。

それ故に、龍樹菩薩はこの法の深味を信心歓喜し、迷える凡夫に対して念仏の真実を示し、阿弥陀仏の本願に救われるべく名号の功徳を讃嘆されます。

天親菩薩もまた名号を讃嘆して、一切衆生と共に往生すべく、一心に願生されます。

ところで、この二菩薩は、まさしく浄土に往生すべき正定聚の機です。

その往生の行に着目すると、そこには全く自利の行は見いだせないことが知られます。

このような往相廻向の菩薩行を、曇鸞大師は、

云何が廻向する、一切苦悩の衆生を捨てずして心に常に作願すらく廻向を首として大悲心を成就することを得たまへるが故にとのたまへり。

廻向に二種の相有り。

一者往相、二者還相なり。

往相とは、己が功徳をもって、一切衆生に廻向して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなりと。

と領解されます。

そして曇鸞大師自身は、この天親菩薩の教えに導かれて獲信に至ります。

この獲信以後の曇鸞大師の行道が「行巻」に説かれるのですが、そこにも自利の面は何一つ見いだせません。

その往相の行道は、ただ天親菩薩の一心を明かし、その一心に随順して、衆生と共に阿弥陀仏の浄土に往生すべく、名号を讃嘆されているのみだからです。

ここに現生における正定聚の機の、往相の利他行としての称名念仏がみられます。

私たちは今日、この「行巻」に説かれている、正定聚の機の実践としての往相の利他行を完全に見落としています。

そして

「往相とは、己が功徳をもって、一切衆生に廻向して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめ」

るという行為を、この世の自分とは全く別な次元でとらえようとしています。

けれども親鸞聖人は、この往生浄土の行を明確に正定聚の機の、この世における実践行として論じておられるのです。

では、果たしてこのような菩薩行が、この世で可能なのでしょうか。

ここで『歎異抄』の第四条に注意してみたいと思います。

ここで親鸞聖人は

「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」

として、この世における聖道の慈悲の不可能性を明らかにした後、浄土の慈悲に関して「念仏まふすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらうべき」と説いておられます。

正定聚の機によって説かれる、一声の念仏の真実こそが、浄土の大慈悲だと親鸞聖人はみておられるのです。

なぜ末法の仏法において、南無阿弥陀仏の讃嘆が、唯一の慈悲の実践になるのでしょうか。

ここにのみ一切の衆生の仏果への道が開かれているからです。

ところが、私たちはその一声の念仏の重要性を、今日あまりにも軽く見ているように思われます。

還相の菩薩を自身に重ね、信の主体性を論じて、聖道門的実践の重要性を大いに強調することはあっても、そこに一声の念仏は重なってはきません。

また念仏の声を世界や子や孫にとスローガンに掲げたものの、その呼びかけはなかなか人びとの心に響くことはありません。

それは、なぜなのでしょうか。

正定聚の機の浄土真実の行が、そこに見られないからだと言えます。

それは一声の念仏の讃嘆が、いかに希有の行であるかということを物語っています。

このことは曇鸞大師が、五逆罪を犯した者と、正法を誹謗した者との罪の軽重を論じて、謗法罪の方がはるかに重罪であると見られたことと同じです。

真の意味での倫理的な正しさは、仏法を信じる者の上にしか成り立ちません。

同様に、正定聚の機の説法でなければ、人はその説法に真の意味で耳を傾けようとはしません。

獲信者の人格の深さが、初めて人の心に念仏を聞かしめることになるのです。

「行巻」に明かされる道綽禅師以後、法然聖人に至る念仏の讃嘆も、すべて正定聚の機の往相の利他行としての念仏行です。

それは、自分自身が獲信するための念仏行ではなく、他に対する念仏の讃嘆です。

このような中で、第二十願の念仏に惑い、究極的に苦悩のどん底に落ち込んだ親鸞聖人が、たまたま法然聖人に出遇われ、念仏の真実を説法されて、獲信に至られたのです。

では、獲信された親鸞聖人にとっての仏道とは何であったのでしょうか。

それは、ただ念仏讃嘆の行道につきるのみでした。

そして、この念仏の讃嘆こそが、唯円等を獲信に導いたのです。

ここに、利他行のみを実践している獲信以後の親鸞聖人の姿があります。

曇鸞大師以後の念仏者は、いずれも愚悪なる「凡夫」でしかありません。

けれども、この凡夫が弥陀廻向の念仏を獲得することによって、まさしく菩薩に等しい利他の行道を実践しているのです。

それは、念仏の真実を讃嘆することによって、無数の人びとを仏果に導いているということです。

親鸞聖人は

「信心をうるをよろこぶ人おば、経には諸仏とひとしきひととときたまへり」

と述べておられますが、この信心喜ぶ人こそが定聚の機としての利他行の実践者なのです。

そうすると、私たちにとって重要なことは、この凡夫が正定聚の位に至ることであり、正定聚の機となって往相廻向の利他行を実践することだといえます。

そして、この称名念仏のみが大乗菩薩道としての浄土真実の行となるのです。

ただし、それはどこまでも往相廻向の利他行であって、還相廻向の菩薩道ではありません。

この世の凡夫は往生すべき衆生なのであり、決して浄土から来たった衆生ではないからです。

では、この世における還相廻向の行とはいったい何なのでしょうか。