獲信者にとっての往相の行道とは何でしょうか。
すでにそれは錯覚であることを指摘したのですが、今日一般的には、浄土教の行は、往相の行が自利、還相の行が利他としてとらえられています。
けれども親鸞聖人の思想には、そのような見方は存在しません。
それは、親鸞聖人の思想には、衆生の自利による往生の行は成り立っていないからです。
第十九・第二十願の念仏の行者に見られるように、未だ獲信していない念仏者にとっては、自らの往生を願う自利の念仏行は確かに存在しています。
けれども、この自利の念仏行では、往生は成立しません。
いかに一心に往生を願って阿弥陀仏に念仏を廻向したとしても、この念仏によっては往生は決定しません。
阿弥陀仏を必死に念じようとしているその信こそが、自利を求める自力の信でしかないからです。
したがって、第十八願の念仏行は、この第十九願と第二十願の念仏行の、完全なる破綻の上に導かれることになるのです。
親鸞聖人は「欲生心釈」で、煩悩具足の凡夫には「真実の回向心なし、清浄の回向心なし」と述べられます。
凡愚には、自らの利を求める心しかないからで、菩提心に伴われた往生を願う心など、全く存在していません。
だからこそ、阿弥陀仏はこの凡夫を救うために、一切の衆生に往還二種の功徳を名号をとおして廻向されます。
第十八願の念仏往生とは、この阿弥陀仏の大悲心と念仏の廻向による衆生の往生を意味しています。
したがって衆生は、真実第十八願に出遇い、弥陀の信楽を獲信することによって、往生は決定するのです。
ところで、その願心の信知は、自力心の自利の念仏が、ほんの少しでも残っている限りは起こり得ません。
衆生の側に、阿弥陀仏の本願を真実信じようとする心が未だ生じていないからで、第十九願と第二十願の自利の念仏が完全に破れなければ、第十八願との真の出遇いは実現しないのです。
しかし、自利の念仏の破綻のみでも、獲信は起こり得ません。
一切のものが破綻した衆生の心は、悲嘆と苦悩の完全なる絶望でしかないからです。
では、この衆生の第十八願との出遇いの可能性はどこにあるのでしょうか。
ここに第十七願が「往相廻向の願」と名づけられる理由が見いだされます。
親鸞聖人は手紙に「真実信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたり」と記しておられますが、絶望の淵に沈む衆生にとって、第十八願との出遇いの可能性は、この衆生がその教えの真の説法に、しかにして出遇うかにあります。
そのためにも、この人間界において、第十八願の教法の真実を完全に覚知している方が、迷える衆生に先立ってまず存在しなければならないのです。
阿弥陀仏は、第十七願に、十方世界の諸仏が弥陀の名号を称し、その威神功徳を讃嘆すると誓われていますが、諸仏が阿弥陀仏の名号を説法するという善巧方便がなければ、諸仏国土の衆生は絶対に阿弥陀仏の本願に出遇うことはできません。
そうすると「往相廻向」の廻向の行には、二種類の廻向の働きがみられることになります。
一は、阿弥陀仏が一切の衆生を摂取する名号の廻向行であり、二は、その名号の功徳を衆生に具体的に説法している、諸仏・善知識の廻向行です。
そして、この諸仏・善知識の廻向行を抜きにしては、衆生の「聞其名号信心歓喜」の獲信は起こり得ません。
私たち人間にとっての諸仏とは釈迦仏のことです。
そこで親鸞聖人は、この弥陀・釈迦二尊の往相廻向の行を第十七願にみられ、この願を「往相廻向」の願と名づけられたのです。
迷える衆生には、未だ往相廻向の行は存在しません。
それ故に、往相廻向の行が釈迦・弥陀によって衆生に廻向されるのです。
この場合、廻向の根源は阿弥陀仏の本願にあります。
阿弥陀仏の二種廻向によって、釈尊の廻向が成り立つのです。
したがって、この二種廻向の法が衆生の心に至るのも、根源的には阿弥陀仏の廻向の行によるものです。
けれども、衆生がその弥陀廻向の真実を実際に知ることができるのは、釈尊の説法を通してです。
そうだとすれば、具体的に衆生の心に響く廻向行は、釈尊の行為によるのであって、その説法を通して阿弥陀仏の名号が衆生に信知せしめられるのです。
この釈尊の往相廻向の行は、釈尊自身の往生行ではなく、迷える衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるための廻向行であることはいうまでもありません。
ここには、自利の面など全く存在しないのであり、完全なる利他廻向の行であることは明白です。
親鸞聖人は「行巻」において、浄土真宗の行を第十七願の誓願にみられます。
そしてこの願を「諸仏称名の願」と呼ばれ、その行を「浄土真実の行・選択本願の行」と註解されます。
阿弥陀仏の二種廻向を説法される釈尊の行為こそが、この世の衆生を浄土に往生せしめる「浄土真実の行」なのであり、その行が阿弥陀仏の「選択本願の行」である名号法を顕彰するのです。
この釈尊の善巧方便によって顕になった弥陀二種廻向の法が「行巻」の内容ということになります。
では、釈尊はどのようにして衆生を浄土に導かれたのでしょうか。
『仏説観無量寿経』発起序に説かれる釈尊の韋提希に対する導きにこの点がよく示されています。
ここでは、絶望する韋提希に対して、釈尊は彼女を牢獄から救い出すことも、また禅定を行ぜしめて心に平安を与えることもしてはおられません。
ただ阿弥陀仏の名号を説いて、彼女を獲信せしめているだけです。
しかしながら、この瞬間に韋提希は、正定聚の位に住し、喜・悟・信の三忍を獲得しているのです。