すでに明らかになったように、衆生は阿弥陀仏の二種の廻向によって往生し還来します。
まさに、私たちの往還は『文類聚鈔』に
「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」
と示されている通りなのであって、この真理は絶対に動かし得ません。
けれども同時に「証巻」還相廻向釈の『浄土論』の引文
「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して応化の身を示す。
生死の薗、煩悩の林の中に廻入して、神通に遊戯して教化地に至る」
と、この文を註釈する『論』の引文
「還相とは彼の土に生じ已って、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切の衆生を教化して共に仏道に向かへしむるなり」
にみられる還相の廻向の相は、すでに述べたように、阿弥陀仏の廻向を示しているのではなく、阿弥陀仏の廻向によって、今まさに浄土に往生し教化地に至った還相の菩薩の廻向の相です。
では、この還相の菩薩は、具体的にどのような行道を歩かれるのでしょうか。
それが、この引文に続いて引用される『論註』の文の内容になります。
ところでその引文の中、浄土の菩薩の行道の功徳を殊に端的に示す文が「浄土三厳二十九種」の中の、菩薩の「四種の正修行功徳成就」であることは言うまでもありません。
いま菩薩の四種の正修行について、次のように語られています。
一、一仏土において身動揺せずして十方に偏す、機種に応化して実のごとく修行して、常に仏事をなす
二、彼の応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す、機種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するが故に
三、彼一切の世界において余なく諸の仏会を照らす、大衆余なく広大無量にして諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。
四、彼十方一切の世界に三宝ましまさぬところにおいて、仏法僧功徳大宝海を住持し荘厳して、偏く示して如実の修行を解らしむ。
阿弥陀仏の浄土の教化地の菩薩は常に三昧の中にましまし、阿修羅の琴のごとく一瞬にして自由自在に一切の仏事が行ぜられると示されています。
浄土に生まれながら、しかも教化地の身となって、一切の迷える衆生を救うために種々に応化して十方の穢土に還来されます。
その教化の行道は、一瞬にして十方の世界に至ってなされ、しかも余すところがありません。
いまだ仏法僧の三宝が顕れていない世界においても、そこに念仏の大功徳をもたらして、仏道の如実の修行を衆生に領解せしめる。
以上のような還相の菩薩の躍動の相がここにみられるのです。
ところで、今一つ「善巧摂化章」以下の文においても、菩薩の行道が次のように具体的に示されます。
菩薩の巧方便回向とは、謂く礼拝等の五種の修行を説く所集の一切の功徳善根は、自身住持の薬を求めず、一切衆生の苦を抜かむと欲すが故に、作願して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ。
菩薩は何故に礼拝等の五念門行を修せられるのでしょうか。
五念門行を行ずることによって、無限の功徳が菩薩自身の上に成就されることになりますが、その所集の一切功徳善根は、何一つとして菩薩自身のためにあるのではなく、まさに一切の衆生の苦悩を抜かんがために、その功徳が積まれているのであり、自らの作願は一切の衆生と共にかの阿弥陀仏の浄土に生まれんがために他なりません。
そしてこの菩薩行のさらなる具体的内実が、この文に続く「障菩提門・順菩提門・名義摂対」等の各章に説かれる、智慧と慈悲と方便の関係の中で明かされることになります。
五念門とは、まさに菩薩の智慧と慈悲と方便とを成就するための行道であるが故に、この五念門行こそ、菩薩の完全なる利他行の実践となるのです。
では、五念門行によって成就される、智慧と慈悲と方便とは、どのような行なのでしょうか。