冷(つめ)たい円座に身を置き、冷たい机に肱(ひじ)をよせ、範(はん)宴(えん)は何かの筆を執っていたが、その筆を投げるようにおいて眼をとじた。
眉に一すじの針が立つ。
かろく頭をふりうごかしている。
そしてまた、筆を執った。
「…………」
無我になろうとする、無想の境にはいろうとする、写経の一字一字に、筆の穂に、あらゆる精をこめて――雑念(ぞうねん)を捨てて―
怖いような横顔であった。
筆の軸にかけている指の節々にさえ異様なものがこもっているように見える。
「……少僧都(しょうそうず)様、御門跡様、御写経中を恐れいりますがちと申し上げまする」
坊官の木(こ)幡(ばた)民部である。
最前からうしろに両手をつかえて機(おり)を見ているのであったが、容易に範宴の耳に入らないらしい。
――で、少しすり寄って畏る畏るこういうと、
「何か」と、範宴は顔を向けた。
きっと射るような眼を向けた。
「お客殿に、あまり永うお待たせ申し上げておりますが」
「誰が?」
と、考えるようにいう。
これには民部もちょっと意外な面指(おもざし)を示した。
花山院の公(きん)達(だち)がいつぞやの僧正の件についての礼に来ているということはもう半刻(はんとき)も前に取次いであるのに――と思ったが、もういちど改めて、
「花山院の御公達が見えられて、先ほどより、お客間にいらっしゃいますが」
「そうそう、そうであったな」
「お通し申しあげましょうか」
「いや、待て……今日は範宴、何とも体がすぐれぬゆえにと――ようお詫びして帰してくれい」
「は……。ではお会いなさいませぬので」
「何とも、会いとうない」
やむを得ず民部は退(さ)がってゆくのであったが、いつに似気(にげ)ないこともあるものだと思った。
客に接するのにこういうわがままなどいったことのない範宴である。
それに、この数日来というものは、語気にも霜のようなきびしさと蕭殺(しょうさつ)たる態度があって、ほとんど人をも近づけぬ烈しさが眉にあらわれることがある。
(師の君は、近ごろ、どうかなされている)それは民部のみが感じるのではない。
性善坊もいうし、あの神経のあらい覚明でさえ気づいている。
いや、気づいていることは範宴自身が誰よりも知っていた。
そして、こういう自分の焦燥(しょうそう)を、自ら省(かえり)みて口惜しいとも浅ましいとも思い、あらゆる行(ぎょう)に依ってこの焦(いら)だちを克服してしまおうと努めるのであったが、意識すればするほどかえって心はみだれがちになり、あらぬもののほうへ囚(とら)われてしまうのであった。
こういう現象は、つい七日ほどまえの夜からであった。
あの夜以来、範宴の眸(ひとみ)にも、心にも、常に一人の佳人(かじん)が棲(す)んでいた。
追おうとしても、消そうとしても、佳人はそこから去らなかった。
そしてある時は夢の中にまで忍び入って、範宴の肉体を夜もすがら悩ますのであった。