「あなたは万(まで)野(の)どのですな」
しばらくしてから範宴の低く洩らした声であった。
「びっくりなさいましたでしょう」
「驚きました……」
ありのままに範宴はいった。
樹蔭には姫のすがたまで見えるのである。
どうして自分の登岳を知ったのであろうか。
笠に潜(ひそ)めていた彼の面(おもて)は、それをとれば狼狽(ろうばい)にかき乱されていたに違いなかった。
「きのう、さるお人から、ふと大乗院へお籠りの由を、ちらとうかがいました」
「?……」
そういう人があるはずはない。
自分の心の裡(うち)で独りで決めたことだ。
それを打ち明けた性善坊にしても、つい昨日(きのう)話したことである。
月(つき)輪(のわ)へまで、それが伝わるわけはなかった。
「ご不審でございましょう。実はそれを、教えてくれたのは、いつかの琵琶(びわ)法師でございます。――私と姫(ひい)さまが、あまりに傷(いた)ましいといって、こう申しました。それほど、範宴御房に会いたいならば、これから、叡山の登り口の赤山明神に参籠なされ、この二、三日のうちには、必ず範宴御房がそこを通るに相違ないと仰っしゃいました」
「あの加古川の沙(しゃ)弥(み)が、そう申しましたか。……あの法師は怖ろしい眼あきじゃ」
「その峰(みね)阿(あ)弥(み)のいうには、おそらく、範宴御房の行く道は一つしかあるまい。それは叡山だ。きっと叡山へ登ると信念をもっていいました……で、お姫(ひい)様(さま)と心を決めて、お待ち申していたのでございます。私たちも、ふたたびお館へは帰れませぬ。また、世間のいずこへも戻る家はございませぬ。どうか、不愍(ふびん)と思し召すならばお姫さまを連れて御山(みやま)へ登ってくださいまし、お縋(すが)り申しまする」
万野(までの)は、膝を折って泣き伏した。
姫も、樹蔭で泣いているのである。
女のつかんでいる強い力が範宴の足を大地へ釘で打ったようにしてしまった。
昏惑(こんわく)と慚愧(ざんき)とが、いちどに駈け荒らした。
ここまでは澄明(ちょうめい)を持ちこたえて聖域へ攀(よ)じのぼる一心に何ものの障碍(しょうげ)もあらじと思い固めて来た決心も、いったん心の底に響きをあげて埋(うめ)地(ち)のような陥没(かんぼつ)を見てしまうと、もうそこに藁(わら)一本の信念も見出せなかった。
彼もゆるされるならば、万野と一緒に膝をついて泣いてしまいたい。
いや、死ねるものなら死んだほうがはるかによいとすら思うのであった。
「もう、お館にも、あのことが知れたのでございます。世間も薄々知ったかもわかりません。姫さまは髪を下ろしても、共にと、仰せられますし……」
万野の立場は苦しいものに違いなかった。
いずれやがてはと覚悟していたことが余りにはやく足もとへ迫ってきたのだ。
自分の行為から起ったこの問題のために苦しんでいる姫と万野とを残して、自分のみが、山へかくれて安心が得られるものだろうか。
彼の道徳は自分に対して強く責めずにいられなかった。
と、いってこの聖域へ女人(にょにん)を連れて上るなどということは思いもよらない望みである。
叡山(えいざん)の高嶺(たかね)はおろかなこと、この雲母(きらら)坂から先は一歩でも女人の踏み入ることは許されない。
帝王も犯し得ない千年来の掟として厳然たる俗界との境がここに置かれてある。