小説・親鸞 九十九夜 2014年8月28日

眼をとじてもいつまでも眠りに入れない尋有であった。

兄は自分を寝(やす)ませておいてどこかへ出て行った。

廊下で堂衆の寒さにふるえているような声がきこえる。

堂衆のうちで賊に斬られた者があるというから、その男の手当やら後の始末をしているのであろう、微かな物音が更けるまで庫裡(くり)に聞えた。

それが止むと、やがて範宴はそっと室へ帰ってきた。

尋有は自分の寝顔をさしのぞいている兄の容(よう)子(す)を感じながら眠ったままに装っていた。

兄もすぐ側に眠るであろうと考えていたのである。

ところが範宴は法衣(ころも)の紐(ひも)をしめ直したり、脚(きゃ)絆(はん)を当てたりして、これから外へでも出るような身支度をしているのだった。

(今ごろ?)と尋有は怪しんで冴えた心になっていた。

ふっと、息(いき)の音(ね)がしたかと思うと、短檠(たんけい)の燈(ひ)は消えていた。

寝ている者の眼をさまさせまいとするように、しのびやかな跫音(あしおと)が室を出て、後を閉めた。

「はて……?いずこへ」尋有は起き直った。

しばらくためらっていたがどうしても不安になった。

あわてて、枕の下へ手を入れる、そこらに脱いでおいた法衣(ころも)を体に着ける。

外へ出た。

彼方(かなた)を見、此方(こなた)を見廻したが、もう兄のすがたは見えない。

山門の方まで駈けてみる。

そこにも見えないのである。

峰と峰のあいだの空が研(と)がれた鏡のように明るかった。

寒さは宵とは比較にならない、この寒気を冒して、この深夜をこえて、兄は一体どこへ出て行ったのか。

翌(あく)る朝になってみると、兄は、自分のそばに法衣(ころも)も解かずに寝ていた。

眠る間があったのだろうか、さりげなく朝の食事はひとつ座に着いて喫している。

「兄君、ゆうべあれから、どこかへお出になりましたな」

「うむ、行った」

それきりしか問わなかったし、それきりしか答えもしない。

範宴はすぐ斎堂(さいどう)を立って、

「わしは、ずっと、黙想を日課にしておる。行室(ぎょうしつ)におるあいだは、入ってくれるな」

といった。

昼間は、顔をあわす折もないし、夜はまた、ただ一人でどこかへ範宴が出て行ってしまう。

一夜も、欠かした様子がない。

山へかくれた去年から今年への間に、範宴の心境は幾たびとなく苦悶のうちに転変していた。

死を決して、食を断(た)ったという噂も事実であろう。

この寂(じゃく)土(ど)から現実の社会を思って、種々(さまざま)な自分を中心として渦まくものの声や相(すがた)を、眼に見、耳に聞き、生きながら業(ごう)火(か)の中にあるような幾月の日も送っていたに違いない。

そうして今は何か一(ひと)すじに求めんとするものへ向って、夜ごとにこの大乗院を出ては、朝になると帰ってくる彼であった。

「今夜こそ、そっと、お後を尾(つ)けて行ってみよう」

尋有は、兄の行動を、半ばは信じ、半ばは世間のいう悪評にもひかれて、もしやという疑いをふと抱いた。