魔の荒していった伽(が)藍(らん)のひろい闇を、その後の惨たる泥足の跡を、冷たい風がふきぬけていた。
尋(じん)有(ゆう)はいつまでもからだの顫(ふる)えがとまらなかった。
脚ぶしをがくがくさせて、廻廊の扉(と)口(ぐち)から大床のうちを覗(のぞ)いた。
一点の灯(あか)しもない。
いるのかいないのか範(はん)宴(えん)のすがたも見えない暗さである。
尋有は這うように進んで行った。
――と、賊が捨てて行った経巻が白蛇のように解けて風にうごいている。
その側に、坐っている者の影が見えた。
「兄君ッ……」
つき上げて出た声だった。
範宴のほのかに白い面(おもて)がじっと自分のほうへ向いたことがわかると、尋有は跳びついて兄の膝にしがみついてしまった。
「おっ!……」
愕とした兄の手が尋有の背をつよくかかえた。
かかえる手もかかえられる手も氷のようだった。
ただ、範宴の膝をとおす弟の涙ばかりが熱湯のようにあつい。
そして、範宴は弟が何のために山へ来たかを、また尋有は兄が自分の姿をどう心の裡(うち)で見ているかを、何もいわないうちに分ってしまったような気がするのであった。
兄を責めるとか諌(いさ)めるとかいうようなことはみじんも忘れ果てて、ただ、肉親の情涙の中に泣き濡れていることだけで満足を感じてしまった。
「よう来たのう、道にでも迷うてか、この夜更けに入って――」
「兄君……」
とだけで、尋有は舌がつってしまう。
何もいえないのだ。
ただなつかしいのだった。
「寒かろう、それに飢(ひも)じいであろう。はての……なんぞ温い食べ物でもあればよいが」
「いいえ、私は、飢(ひも)じいことはありません。何もいりません。……それよりは、どこもお怪我(けが)なさいませんか」
「なんで?」
「天城四郎のために」
「…………」
黙って、微笑して、範宴は顔を横に振って見せる。
まるで他人(ひと)事(ごと)のようにである。
尋有は、兄の膝から顔を離し、兄の手をつよくつかんだ。
「ご存じですか。世間の声を、都の者の喧(やかま)しい非難や論議を」
「うむ……」
「師の君の御苦境やら、また、姫のお父君でおわす月輪様の御心痛も」
「……知っておる」
「すべてをご存じですか」
「この山にいても、眼にみえる、心に聞える、身はふかく霧の扉(と)にかくれても、心は俗界の迷路からまだ離れきらぬためにの。――そんなことではならないのだ、今のわしは、今の範宴は」
つよい語尾であった。
尋有はこの期(ご)になっても屈しない兄の厳(おごそ)かな眉にむしろ驚くのだった。
会うごとに兄の性格が高い山へ接してゆくように、深く嶮(けわ)しく、そして登れば上るほど高さが仰がれてくる心地がするのである。
「心配すな、それよりは寝(やす)め。――わしの室(へや)へきて」
静かに立った時、堂衆の紙(し)燭(そく)が、奥のほうでうごいていた。