「原発事故後の福島を生きる」(上旬)本当に毎日毎日不安で仕方がありませんでした

ご講師:佐々木るりさん(真宗大谷派真行寺坊守)

3月11日の震災当日、私は二本松にある自坊・自宅で地震に遭いました。

その後、お寺に避難してきた近所の方々と一緒に過ごし、原発の爆発事故のことを知ったのが3月14日。

この時は、強制避難指示はありませんでしたが、話し合いの結果、子どもたちと母親たちが優先的に避難することになりました。

新潟県三条市にある大谷派三条別院で避難生活をさせていただき、福島の自分の家に帰ったのは2カ月後のことでし。

その時の私の心は、家族みんなで暮らせる喜びと嬉しさを感じる以上に不安でいっぱいでした。

実際、福島での暮らしは思った以上に困難でした。

食べ物や水には汚染の恐怖がつきまといましたし、周囲は汚染がひどくて、小さな子どもを外に出すこともできません。

学校に通っている子どもたちも、長袖・長ズボン・帽子・マスク着用で登下校でしたし、家では換気扇もつけられませんでした。

本当に毎日毎日不安で仕方がありませんでしたが、それでも子どもたちを守っていかなければなりません。

どうやったら福島で被爆させずに守り育てていけるのか、いろんな人にアドバイスをいただきました。

まず一番急務だったのが、除染作業です。

汚染された表土や樹皮をはぎ取って地面に埋めたり、放射線を浴びた屋根を洗浄・切削、あるいは全部取り換えたりしました。

それから、雨水がたまる場所というのは、大変な汚染があります。

だから、雨どいを全部取り換えるのも除染です。

はぎ取った汚染土や樹皮の行き場は福島県でもまだ決まっておらず、各家庭で保管しています。

それは3年以上経った今も続いています。

それから食べ物です。

汚染された食べ物を食べると、体内に放射線を取り込む内部被爆を起こします。

放射線は新陳代謝が活発な子どもでも1カ月は体内に残ると言われています。

放射線が細胞を傷つけ続ける内部被爆はガンなどのさまざまな病気につながるとされるため、とにかく子どもたちには安全な物を食べさせなければいけません。

そのためには、放射線量を測定するための特殊な機械で野菜を一つ一つ測らなければなりませんでした。

その機械は、1台数百万円と非常に高価で、測定するのも1時間ほどかかります。

時間も人手もかかるため、結局ほとんど県外の野菜に頼らざるを得ませんでした。

しかし県外産の野菜は、福島のものと比べて2~3倍の値段がついていて、家計にとって大変な圧迫でした。

そこで、震災から半年ほど経ったころ、全国の方に余っている食べ物があれば、私のお寺に送ってくださいと呼びかけたんです。

すると、たくさんの野菜や米、水などが届くようになりました。

今はお寺の会館で開く「青空市場」と称して、全国約100カ所から届けていただいたそれらの食べ物を、子どもさんがいるご家庭や妊婦さんなど、250ほどの家庭で分け合いながら暮らしています。

今では、除染をした畑でとれるものや、放射線を吸い上げないような研究・工夫によって作られた米など、福島産でも安全な食べ物が少しずつ増えてきました。

でも、まだ安心できないと思っているご家庭の方はたくさんいらっしゃいまして、今もこの野菜をもらいに来る家族は増える一方です。