花頂山の肩に、うすい夕月がにじみ出ている。
「めずらしくご長座だ、上人とのお話がよほど合っているとみえる」
と、輦(くるま)の轅(ながえ)のそばにかたまって、覚明だの性善坊だのが噂しているところへ、木幡民部が、門のうちから
「お召しじゃ」という。
「やっとお帰りか」と人々は入って行ったのである。
ところが、範宴は、帰るのではなかった。
そこへうずくまった人々をじっと見下ろして、何か改まった顔いろである。
いおうとする言葉を心のうちで整えている容(よう)子(す)だった。
沓(くつ)ぬぎの穿物(はきもの)をそろえかけた性善坊は、その唇を仰いで、はっとした。
「何か?……御用でございましょうか」と、手をつかえ直す。
「されば」と範宴は、一同を見わたして、
「突然こう申しては、そち達の心もわきまえぬ無情の師よと恨むでもあろうが、範宴はただ今、上人のおゆるしを得て、今日よりは当(とう)吉水に止(とど)まって、念仏門の一沙(いちしゃ)弥(み)となって修行をし直すことに決めた」
「えっ……。この門に」
あまりにも大きなこの驚きを、いう人のことばはまたあまりにも穏やかで、こういう大事を、ほんとに胸に決しているとは思えないくらいであった。
「上人の一弟子として、ここに止まるうえは、もはや、少僧都の鮮(あり)衣(ぎぬ)も、聖光院門跡の名も、官へおもどしすべきものである。おのおのは帰院して、範宴遁世(とんせい)のよしを叡山(えいざん)へ伝えあげてもらいたい。なお一山の大衆には、べつに宝幢院(ほうどういん)へ宛てて、後より範宴の信じるところを認(したた)めてさし出すつもりである」
そういって、傍らの室(へや)へ入ると、範宴は、白(しろ)金襴(きんらん)の袈裟(けさ)や少僧都の法服をすでに脱いでいるのである。
(真実(ほんと)なのだ)と思うと、覚明も性善坊も胸もとまでつきあげていた涙がいっさんに顔を濡らして、両手のうえに肩をくずしてしまった。
こうといわれたら揺るいだことのない師のことである。
しかも、今の決意の眉はただ事ではない意志の表示であった。
袈裟、法(ほう)衣(え)などを、自分の手で畳んで、自分の手にのせた範宴は、再びそこへ来て性善坊へそれを渡した。
見ればもう、薄ら寒い黒(こく)衣(え)を袈(か)けた師であった。
「では、そち達も身をいとえよ。叡山へ帰るなり、折を見て、この範宴と共に念仏門へ参るも心まかせ。永いあいだの真心の侍(かしず)きは、袂(たもと)を別った後(のち)も忘れはせぬ……」
と、範宴は頭を下げた。
弟子たちは嗚(お)咽(えつ)を怺えきれなかった。
師の脱いだ袈裟(けさ)だけを乗せて、空(から)の輦(くるま)は、花のちる夕風の中を、力なく、帰って行くのだった。