小説・親鸞 恋愛篇 門 2014年10月16日

見栄(みえ)もない、恥もない。

(この人ならでは――)と一心にすがる気もちで、少僧都の白金襴をまとう身を懺(ざん)悔(げ)の涙にぬれ伏して一切を訴えていう声である。

法然は終始じいっと眦(まなじ)りをふさいで聞いていたが、やがて半眼にひらいた眼には同情の光がいっぱいあふれていた。

いじらしげに、二十九歳の青年の惨(さん)たる求(ぐ)法(ほう)の旅の姿を見るのであった。

ひたむきに難行道の嶮路にかかって、現在の因習仏教の矛盾と闘い、社会と法門のあいだの混濁を泳ぎぬき、さらに、その旺(さかん)な情熱と肉体とは、女性との恋愛問題とぶつかって、死ぬか、生きるかの――肉体的にも精神的にも、まったく、荊(いばら)と暗黒のなかに立って、どう行くべきか、僧として、人間として、その方向さえ失っているというのである。

「わたくしは、ついに、だめな人間でしょうか。

忌(き)憚(たん)なく仰っしゃって下さい」と、範宴は、熱い息でいった。

「いや……」法然の顔が、わずかに左右へうごくのを見て、

「だめな人間ならば、死ぬのが、もっとも自分に与えられた道だと思うのですが」

「あなたは、選まれた人だと私は思う。この人間界に、五百ヵ年に一度か、千年に一度しか生れないもののうちのお一人だと思う」

「どうしてでしょう」

「今に、ご自身で、慧(え)解(げ)なさる日が必ず来る」

「そうでしょうか」

「お寛(くつ)ろぎなさい。もっと、楽な気もちにおなりなさい。あなたの歩いてきた道は、わたくしも通ってきた道だ。風波と戦うがかりが彼(ひ)岸(がん)の旅ではありません。――しかし、よくそこまでやられた。自力難行の従来の道にある人が、いちばん怠っているその自力を出すことと難行を嫌うことでした。それへあなたは真向(まっこう)にぶつかって行った。そして当然な矛盾につき当ったのです。けれど、今のあなたの突き当った境地こそ実に尊いものであります。誰がここ数百年の間、それへ突き当るまでの難路を歩んだでしょうか。あなたのような人こそ、まことに法然の知己だ、法の友だ、この後とも、どんなご相談にもあずかりましょう」

上人は手をのべて、範宴の手をとった。

「ありがとう存じます」範宴は、瞼をあつくした。

上人のあたたかな手を感じると、勿体なさに、体がすくむのであったが、いつかは会う約束の人に会ったのである。

この手は、自分が結んだのでも上人が結んだのでもない、御(み)仏(ほとけ)が、こうして結ばせているのであると思って、にこと笑った。

上人もほほ笑んだ。

範宴の笑顔からは、ぱらぱらと涙がこぼれた。

涙は、随喜(ずいき)の光だった。

半日も、上人と二人きりで話していた範宴は、やがて室(へや)を出て、禅房の入口にすがたを見せると、自分のつれてきた供の人々をそこへ呼び入れた。

*「慧解(えげ)」=仏教で、智慧の働きによって一切の物事を正しく理解すること。

*「随喜(ずいき)」=仏教で、喜(よろこ)んで信仰すること。心からありがたく思うこと。