『近くして見難きは我が心なり』(中期)

親鸞聖人はご本尊としてとくに「帰命尽十方無碍光如来」の十字の名号を尊ばれたと伝えられています。

この「尽十方無碍光如来」について『尊号真像銘文』のなかで親鸞聖人は、

『尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは(略)、無碍というは(略)、光如来というは(略)』

と述べておられます。

ここで注意をひかれるのは「光如来」という表現です。

この光如来という言い方によって、親鸞聖人が阿弥陀如来とは尽十方なる光如来であり、無碍なる光如来である理解しておられたことが知られます。

つまり、光のほかに阿弥陀仏という存在はなく、阿弥陀如来とは光如来だということです。

それはまた、阿弥陀仏とは光明として成就された仏だということを意味しています。

この光明について親鸞聖人は、お手紙の中で

『無碍光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏』

と述べておられます。

では、光明としてあらわされる智慧とはどのような智慧なのでしょうか。

言い換えると、なぜ仏の智慧が光明をもってあらわされるのでしょうか。

たとえば、自分のいる部屋の光を全て消して、さらに外からの光も一切遮断して真っ暗にしたとします。

そのとき、私たちにできることは、手さぐりをしながら外に出て行くということだけです。

このように、光がないときの私たちの生き方は、手さぐりしながら生きる他ありません。

この手さぐりの生活とは何を物語っているのかというと、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きていくというあり方です。

私たちは、自分の判断や自分の体験だけを頼りにして生きていくと、物の見方が画一的になってしまいます。

具体的には、自分の体験にとらわれてしまって、物事の本質が見抜けなくなってしまうのです。

光明としての智慧がないとき、人は必ずそういうあり方に陥ってしまいます。

仏法の智慧が光明であらわされる第一の理由は、私たち一人ひとりに抜き難くある、自分の体験への執着そのものを破るはたらきがあるということです。

これは、あれも知っている、これも知っているということではなく、まわりがはっきりと見えるという意味です。

そして、そのことは同時に手さぐりをしている自分自身のすがたがはっきりと見えてくるということです。

手さぐりの生活においては、どこまでもただ自分の体験だけが依り処になっています。

そのため、いつも自分自身を依り処にして生きているように思っているのですが、そうしている自分の姿は自身には少しも見えてはいないのです。

実は、自分自身というものは、自分の目で自分の顔を見ることができないように、自身で見ることはできません。

他の人と出会っていく中で次第にあらわになり、他人との関わりの中で見えてくるものなのです。

それは、他の人の生き方にふれたとき、はじめて自分の生き方もこうであったのかということが分かってくるということです。

したがって、自分の体験したことしか見えていない人には自分の生きる姿は見えません。

他の人がそれぞれ一生懸命に生きている姿にふれたとき、初めて自分の生き方が知られるのです。

つまり、自分を超えた世界にふれたとき、初めて自分のすがたがはっきりと見えてくるのです。

仏教では、自分が見えてくるということを「分限の自覚」という言葉で教えています。

「分限」というのは「能力の範囲」という意味です。

そうすると、分限を自覚するということは、能力の限界を知るという意味だと理解することができますが、それは決して卑屈になることではありません。

自分が劣った者であるとか、罪深い者だと暗くなることではないのです。

それは、分限の自覚ではなく単なる劣等感です。

劣等感というのは、頭を下げたくない心で頭を下げさせられている心の在り方で、現実に負けていることを嫌々ながら認めている心の在り方に他なりません。

自分の分限を自覚するということは、端的には私を生かしてくださっているすべての力に出会い目覚めるということです。

言い換えると、今まで自分の力だけで生きているつもりでいた自分が、すべての人びとのお陰で生かされていたということに気付いたということです。

このような意味で、分限の自覚とは、能力の限界を思い知らされるということではなく、自分にはいったい何ができるのかを知ることだと言えます。

私たちは「自分のことは誰よりも自分が一番よく分かっている」と思っているのですが、決してそうではありません。

まさに、私の心は「近くして見難き」ものなのです。

私たちの迷いの心を「無明」という言葉であらわされますが、如来の智慧が闇を破る光明であらわされることの意味に改めて頷かされることです。