『近くして見難きは我が心なり』(後期)

だいぶ前のお話です。

緩和ケア病棟(ホスピス病棟)で出会った70代の女性のAさん。

最初に病室のベッドに横になっているAさんに出会った時に、僧侶である私を気遣って、

「私はね、小さい時から、おじいちゃんやおばあちゃんに連れられてお寺に参りをしてたのよ。阿弥陀如来さまにずっと手をあわせてきたのよ。だから、今でも阿弥陀如来さまもお寺も大好きなのよ。」

と笑いながら語ってくれました。

お話しすることが大好きだったAさん

私が病室に伺うたびに、体調がきつい時も、そんな様子を見せないで、訪問の時間いっぱいに、いろんなことを話してくださいました。

小さい頃のこと、学生時代のこと、小さいけれども会社を経営してきたこと、結婚はせずに、仕事一筋に生きてきたこと

私はもっぱら聞き役でした。

お話を聞く時間は、いつも、あっという間に過ぎていきました。

でも、何度も何度もAさんにお話を聞いているうちに、私には気になることがありました。

それはAさんの口癖でした。

「私はね、強いから大丈夫なの。ひとりでも大丈夫なのよ。病気のことも全然平気。私って強いからね。」

いつも繰り返す、「私は強い」という言葉が気になりました。

本当に、会社の経営もして、一人で頑張ってきた強い人なのでしょう。

でも、ときおりみせるさびしそうな顔。

言葉の端々にのぞく、病や死への不安。

それを打ち消すように、隠すように、「私は強いの」と言っている様に私には思えました。

きっとAさんは、周りの人から強い人って言われてきたんでしょう。

そして、いつでもどんな時でも、自分は強い人であることを、自分に強いてきたのかもしれません。

強さが、自分が自分である証で、弱い私、不安を抱えている私はいてはいけなかったと

思われていたのかもしれません。

ある日、私は、Aさんごめんなさいと思いながら、いつものように「私は強いからね」というAさんに、

「ほんとは怖いんでしょう。ほんとは不安なんでしょう。Aさん、弱くてもいいじゃない。」

と、つい言ってしまいました。

Aさんは、ハッとした顔をして、そして目を閉じて、しばらく黙っていました。

そして、ゆっくりと口を開いて

「先生、お願いがあるの。この部屋にお仏壇を持ってきてくれませんか。」

と言われました。

看護師さんに相談したら、「大丈夫ですよ」と言われたので

後日、Aさんの部屋に、お寺でお預かりしている小さな仏壇を届けました。

なぜお仏壇?

私は聞きませんでした。

確かめませんでした。

もう聞いてはいけないと思ったからです。

そして、分かるような気もしたからです。

Aさんは、気づかなかった、あるいは気づいていても、心の奥に隠していたのが、

「本当はとてもとても弱い私」

「不安や悲しさや辛さをいっぱいのこころを抱えた私」

自分の心だけど、一番見えなかった自分の心。

見ようとしていなかった自分の心。

そんな心を、Aさんが気づく前から、どんなに隠そうとしても、分かっていてくださったのが阿弥陀如来さま。

抱きしめていてくださったのが阿弥陀如来さま。

Aさんが小さいころから大好きだった阿弥陀如来さま。

その阿弥陀如来さまの前では、飾ることもない、強がることもない。

本当の自分に帰れたのではないかな。

素直な涙が流せたのではないかな。

私は、今でもあの時のハッとしたAさんの顔を忘れません。

「Aさんごめんなさい、若造がえらそうなこと言って」と思います。

そして、お仏壇に手をあわせて、阿弥陀如来さまに優しく抱きしめられているAさんの姿を思うのです。