「しばらくじゃないか」
牢人ていの男は、天城四郎(あまぎのしろう)であった。
呼びかけられた山伏の播磨房弁円(べんえん)に、肩を寄り添えて歩み出しながら、
「どうした、その後は?」
「どうもこうもないさ。相かわらず飄々(ひょうひょう)たる行者の道をさまよっている」
「犬は?」
と、弁円のうしろを見て、
「あの黒犬は連れていないのか」
「ウム」
「死んだのか、かわいそうに」
「いや、斬ってしまった」
「誰が」
「元よりおれがだ」
「飼主が飼犬を斬った、むごいことをする男だ」
「四郎、おまえでも、酷(むご)いということを知っているのか」
「人間は、勝手放題な真似をしたあげくだから、殺された奴でも、そう酷いという気はしない。――だが、犬なんぞは、ろくな思いもしていないし」
「はははは。おかしな感情を持っている男だ」
「なぜ斬ったのだ」
「忌々(いまいま)しいことがあったからだ。聞いてくれ、こうだ」
堤の上に、腰をおろした。
すすきや秋葉の枯れたのが、根に霜を持っているのか、腰の下でばりばりと折れる。
「この春先だ。まだひどく寒かったよ。おまえと別れてから間もなく、おれは、例の善信の奴が、岡崎の草庵を出て、難波(なにわ)から河内(かわち)のほうへ旅に出たのを知ったから尾(つ)けて行った。そして、磯長(しなが)の太子廟(たいしびょう)に夜籠りをしたのを知ったから、こよいこそと、忍び寄って、善信めを斬ろうと計ったところが、あの連れている犬のやつが、縛っておいた縄をかみきって、大事な刹那に、堂の中へ飛び込んで来たろうじゃないか」
「フーム、ありそうなことだな。――そして?」
「わずかな隙に、犬が、吠えたので、善信の奴は、逸(いち)早く、おれの刃(やいば)の先から逃げてしまった」
「追いついて、一太刀と行かなかったのか」
「それへも、犬のやつが、足や袖にからみついて邪魔するために、とうとう、逸してしまったのだ。――何とも残念でしようがない。そこで、忌々しい余りに、狂(きちが)い犬を、斬ッて捨てたというわけだが、しかし、それからはなお怏々(おうおう)として胸が晴れない。聞けば、善信は、あれから間もなく、またこの都へ帰っているそうだな」
「いるとも。――岡崎の草庵で、妻の玉日と、人も羨(うらや)む生活(くらし)をしたいる」
「まあいい」
弁円は慰めるように、
「そのうちに、またよい機(おり)もあろうて。――ところで四郎、あの松原の高札を読んだか」
「読んだ」
「おぬしなどは、この洛中洛外はおろか、およそひろい世間のことは闇の裏まで知っている職業だから、あんなことは、造作もなく分っているのだろうな」
「松虫と鈴虫の行方のことか」
「そうだ」
「いくら闇夜を働いている盗賊でも、そんなことはわからねえよ。分っていれば、すぐ院の衛府へ駈けつけて、褒美の黄金(こがね)にありつこうというもんじゃねえか。……ところが近ごろは、この四郎も、見たとおり尾羽(おは)打ち枯らしての不景気だ。何と、弁円、知っているなら、松虫と鈴虫のありかでもおれに教えてくれねえか」
「はははは、そいつあ、あべこべだ。おれのほうこそ、訊きたいところだ」
※「尾羽(おは)打ち枯らして」=タカの尾と羽のとれた形から、落ちぶれて、みすぼらしいこと。