善信が岡崎へもどって来たのは、決して罪がゆるされたからではない。
むしろ、その重罪が決定したからである。
越後の国府(こう)へ流罪とさだまると、彼は一先ず、評定所の門から出され、その日の来るまでは、岡崎に蟄居(ちっきょ)と決まった。
勿論――上人を訪れることも、官のゆるしがなければできない。
同門の友との往来も厳禁されている。
それでも不平はいえないことだった。
遠国へ流されるまでのたとえ幾日でも、こうして、妻と共に、子と共に、起居がゆるされることになったのは、その裏面に、舅(しゅうと)の月輪禅閤のどれほどな運動があったか知れないのである。
あのよき舅御がなかったら、こういう寛大があるどころではない、善信の死刑は、念仏停止(ちょうじ)の宣下があった後、三日を待たずに行われていたにちがいない。
その禅閤も、やがて、岡崎を訪れ、
「わしはもう嘆かぬ」といった。
善信は、師の法然上人の消息を舅から聞いて、
「さもござりましょう」と、安堵の笑みを泛(う)かべ、
「ただ、このうえの慾には、上人御流罪のまえに――またこの善信が配所に下される前に――たった一目でもお目にかかってゆきたいことです」
禅閤は、もっともであるとうなずいて、それもなんとか、朝廷の人々にすがって、願ってみようといった。
また、玉日と房丸のことについては、
「わしが護っておる、必ず、案じぬがよかろうぞ」
といいたした。
善信は、何事も、吹く風にまかせて咲いている蘭のように、
「どうぞ」と、いうだけであった。
なんの苦悩らしいものもその眉には見あたらない。
わが娘(こ)の聟ながらさすがと禅閤は思うのであった。
そして、法然のことばをも思いあわせ、
「これがなんの悲しみぞ」
と過去数ヵ月の自分の悲嘆が今ではおかしくさえ思えた。
二月か――と巷でもうわさしていた上人の配流の日は、その二月には沙汰が下らず、三月に入った。
都の杉並木の間には、もう彼岸桜の白っぽい花の影が、雪みたいに見える。
春を揺らぐ洛内の寺院の鐘は、一日一日、物憂げに曇っていた。
若い一人の僧が、急ぎ足に、青蓮院を出て行った。
善信の弟、尋有(じんゆう)である。
兄の善信や、吉水の上人の配所護送の日が、いよいよこの三月の十六日と師の慈円から聞いたので、
「一目、兄のすがたを」
と、或いは警固の役人に追い返されるであろうかも知れないことを覚悟して、師にもゆるしをうけて、出てきたのであった。
案のじょう、白川のほうから行く道にも、神楽岡から降る道にも、すげて、岡崎の草庵へかよう道には、鹿垣(ししがき)が囲ってあって、
「ならぬ!」
と、そこにいる武士(さむらい)に、剣もほろろに一喝されてしまった。
事情を訴えても、大地に手をついても、許されなかった。
やむなく尋有は日の暮れるのを待って、道のない崖道から、岡崎の松林の奥谷へ、生命がけで這い降りて行った。