パスカルは、著書『パンセ』の中で、「私たちは幸せになると言って、いつ幸せになるのか。
明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞと、死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わる」と述べています。
哲学者の三木清は、浄土真宗に非常に深く関係されていた方ですが、『人生論ノート』という著書の中で「幸福とは人格である。
また、幸福を武器として戦うものは、戦いの途中に倒れても幸福に死んでいく」と記しています。
私は、学生の頃「幸福とは人格」という言葉を理解できませんでした。
しんし、仏教を学んでいく中で気づかされたのは、世間の知恵と仏教の智慧との違いです。
世間の知恵は、物の表面的な価値を計算する見方であり、仏教の智慧は表面ではなく、ものの背後に宿されている意味を感得する見方であるということです。
つまり「見える命は、見えない命によって支えられている」ということが見えてくるのが、仏教の智慧です。
仏教の智慧が出てくると、私がお蔭さまの中で存在しているのだと分かります。
それは「足るを知る」という世界です。
仏教の世界では、いろいろな縁が集まって「今」「私」という現象があるのであって、固定した私というものはありません。
これを「無我」といいます。
常に変化している「無常」なのです。
一刹那ごとに、生きると死ぬを繰り返し、生死が一枚の紙の表裏みたいにあるというのが、私たちの命のありさまなのです。
私たちは「今、生きていて、死ぬのは先だろう」と思っていますので、「生きること」と「死ぬこと」は別々のことだと考えるのですが、生物学的にみたら違います。
私たちの体は、60兆個の細胞で出来ていて、その200分の1が毎日入れ替わっています。
「エントロピーの法則」といって宇宙の出来事は、必ず濃度の濃いものが拡散するというもので、これを避けることはできないのです。
このことは、お釈迦さまが2600年前に「縁起の法」というかたちで、私たちに教えてくださっています。
私たちは、1日1日、一瞬一瞬が完結している、取り返しのつかない1日だというわけです。
養老孟司先生も「私たちは1日1日、今日のいのちが誕生し、今日の夜、命は死んで行く」そう受け止めるのが、私たちの命の正しい見方であると言っておられます。
仏教の智慧のひとつに「区切りをつける」というのがあります。
「1日1日が勝負なのだ」と見えてきて、「今日生きていることも死に裏打ちされて生きている」という意識が生じ、精一杯生きようという姿勢が出てきたとき、その人が輝くようになるのです。